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インベーダーと朝顔は屋根の上

(くりへし SF 甥叔父)

 侵略者というのは、大概空から降ってくる。大昔のアーケードゲームでもそうだし、名作と名高いハリウッド映画でもそうだ。地底人という選択肢もないことはないけれど、侵略者は宇宙人というのが相場だし、宇宙人というからには宇宙にいるのが当たりまえで、となるとやはりこの地球を侵略するには空から降りてくるしかないのだ。
 そいつは割れた鉢植えの上に立っていた。
 夏休みの宿題で育てていた朝顔が植わっいる植木鉢だったのに、めちゃめちゃになってしまっていて、もうどうしようもないということは一目でわかった。こないだ本葉がでたばかりだったのに。「一ねん三くみ、大くりからひろみつ」と大きく書いてあるラベルがぺラリとはがれて、地面に落ちていた。
 廣光は絶句して、水のたっぷり入ったぞうさんじょうろを地面に落とした。ばちゃん、とそれは水をぶちまけて、カラカラと音を立てて転がった。おろしたての白いソックスと学校指定のシューズに水がかかってしまったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
 不審者が、いる。
 そいつは廣光を見ても何も言わなかった。何も言わず、割れた鉢植えの上にでくのぼうみたいに漫然と突っ立っていた。姿勢ばかりがやたらにいい。そいつは男で、長袖の白いカッターシャツと黒いスラックスを身に着けていて、そのほかには何も持っていなかった。それは一般的には学生にも、社会人にも見える姿だったが、小学生の廣光には「おとな」であるということしか分からなかった。
 見たことのない大人が庭に入り込んでいるというだけでもう恐ろしいのに、白い顔にはまった紫色の目がこちらをじっと見つめていて、それがどうにも化け物じみていて怖かった。抜けるような青い空をバックに、生白い肌が良く目立った。この暑さの中、汗一つかいていないようにも見える。
 お前は誰だとか、朝顔がとか言いたいことは山ほどあったが、しわしわとコンクリに水がしみわたる音がしている間、廣光は何も言えなかった。驚いてものが言えないということはこういうことだと廣光は身をもって知った。しかし依然として向こうも何も言わなかった。
 ほどなくして、その静寂をつんざくように防犯ブザーのビ――――ッという音が住宅街に響いた。

・・


 結論から言うと、そいつは不審者ではなかった。
 騒音を聞きつけて慌てて表に出てきた母が、「くにしげ」とそいつを呼んだからだ。どうやら知り合いらしい、とそこで気付いて廣光は少し恥ずかしいやら情けないやら分からない気持ちになった。
 ランドセルにぶらさがり狂ったように騒音をまきちらす黄色い防犯ブザーを直しながら、母は廣光に向かって「覚えてない? 叔父さんよ。長谷部叔父さん」と言った。はせべおじさん。その響きにはなんの覚えもなかった。けれど親戚とわかればもう漠然とした恐ろしさもなく、この男の足元でもみくちゃになっている朝顔の苗のことの方が気にかかった。
「朝顔が」
 廣光が長谷部の足元に散らばった土くれとばらばらになった植木鉢の破片を指さすと、母はようやくそれに気づいた様子で、驚いて片づけを始めた。さっきまで地面に根を張っているのではないかと思えるくらいに動かないように見えた長谷部は、廣光の母によっていともたやすくどかされた。廣光は母と一緒になって朝顔の苗を助けようと努めたが、助かりそうな苗はほとんどなかった。だいたい茎がぽっきりおれてしまっているか、葉がつぶれてだめになっていた。なんてかわいそうな朝顔。一生懸命毎日水をやっていたのに、こんなにぼろぼろになって。母は新しく種をまくことを提案したが、廣光はどうにもそういう気分にはなれなかった。自分の朝顔はこのひとつきりで、もう他にはない。そういう思いがあった。母には分からなかっただろうが、子供の廣光にとっては重要なことだった。
 二人はなんとか苗を一つ救い出して、それを大事に別の鉢に植え替えた。パッと見たところでは大丈夫そうではあったが、これからちゃんと育つかどうかは不安があった。けれど、廣光にできることといえばただ元気にそだちますようにと神様にお願いすることくらいだった。
「長谷部おじさんのこと、許してあげてね」
 母は廣光にそう言って、諭した。どうしようもないことだと思って、とも付け加えた。廣光はなんで悪いことをした相手が謝りもせず許されてしまうのだろうと理不尽な状況に腹が立ったが、何も言えなかった。元々口数が多い方ではなかったし、不満があるときはいつも黙して座すのが常だったからだ。溜め込むのはよくないぞ、と同級生の鶴丸国永は言うが、その方が楽だと廣光は知っていた。物わかりのいい子でいる方が、他人に必要以上に構われなくていい。生来、他者からの干渉を嫌う傾向のある廣光はそう思っていた。
 ふと気がつくと、いつの間にどこかへ行ってしまったのか、長谷部の姿はどこにもなかった。


・・


 廣光の家にいる間、長谷部はよく屋根の上にのぼった。いつも気付いたらそこに居るのでどうやってのぼったのかはよくわからなかったが、相当身軽なのだろうと思われた。廣光の母は危ないからやめてほしいとは言いつつも、長谷部の好きなようにさせていた。屋根の上でくうくうと寝ている姿は人間と言うより猫の様だ。
「きみのおじさんは面白いなあ。変なひとだ」
 廣光の家に遊びに来た鶴丸国永は、笑って言う。面白いものか、と廣光はつっけんどんな態度で返事をした。他人だからそんなのんきなことが言えるのであって、身内だったら絶対に辟易しているはずだ。廣光は初対面で朝顔を台無しにされたことをまだ根に持っていた。
「あいつは、人間というより動物に近いんだ」
「まあ、それは言えてるな」
「宇宙人と暮らしているようなものだ」
 その言葉は意外としっくりきて、廣光は繰り返した。そうだ、宇宙人だ。長谷部は廣光の家に来てから、一度も食卓をいっしょにはしなかったし、大抵屋根の上にいた。それに、恐ろしいことに一言も口を利かなかった。ただ、紫色の目でなにか言いたげに(それは廣光の思い込みかもしれないが)こちらを見るだけだ。
「お、こっちを見た。大倶利伽羅のおじさあん!」
「馬鹿、手を振るな。鶴丸、構うんじゃない」
「だって、降りるとこ見たいだろう。あんなとこからどうやって降りるのか、純粋に興味がある」
「二階の窓から出入りしてるんだ」
「でも見たことないんだろう」
「見たことがなくても、それくらい分かる」
 屋根の上といったって、長谷部が居るのは二階の窓の下にある少し突っ張ったひさしの部分なのだ。廣光だって頑張れば行けないこともないだろう。もっとも、そんな非常識的で危ないことは廣光にはできはしないし、するつもりもないのだが。
 鶴丸が騒いだせいで、あの紫色の目がこちらを向いている。初めて会ったときに感じた嫌な感じを思い出してしまい、廣光は屋根の上から目をそらした。こちらを見る長谷部の顔はいつも大真面目だったが、廣光はそれを取り合うつもりはなかった。まともに相手をすればどうにかなってしまうのではないかという恐れがあった。第一、まともに取り合ったところで、この男についていけるものなどいやしない。それなら、居ないものとして扱うのが一番いいやり方に思えた。


・・


 たったひとつだけ残った朝顔の苗は、廣光の心配をよそにすくすくと育っていった。
 廣光はそれを毎日絵日記に書いた。つぼみをつける頃には、緑色のクレヨンはずいぶんと短くなっていて、廣光はそれを花を育て上げた勲章の様に大事に使った。
 もう夏も盛りだった。一生懸命絵を描いていると、クレヨンを握る手が汗ばんできてしょうがない。麦わら帽子が手放せなかったし、半袖シャツだと脇が汗でびしゃびしゃになるので廣光はだいたい白いタンクトップを着ていた。
 だのに、長谷部は未だにあの白い半袖カッターシャツと黒いスラックスで汗ひとつかかず、平気そうな顔をしていた。それがなぜだか分からなくて、やはりあいつは人間じゃなくて宇宙人なんじゃないかと廣光は思い込みをいっそう深くした。
 廣光が絵日記を書いていると、教えたわけでもないのに決まって長谷部は屋根の上からそれを見ていた。朝顔の置いてある庭が、長谷部のいる屋根の上から見やすいところにあるせいだった。それがどうにも嫌だったが、言ってもどうせ聞かないと分かっていたので廣光は無視をした。
 今日初めてついたつぼみのところをどうかけばいいか悩んでいたときだった。
「あ、いたいた。こんにちは。お母さんいるかな?」
 突然垣根の上からぬっと首が出て、廣光に声をかけた。あまりのことに廣光は驚いて、クレヨンを取り落とした。
「驚かせちゃったかな。ごめんごめん。大倶利伽羅さんちであってるよね、ここ」
 男は廣光の知っている誰よりも背が高く、そして黒いアイパッチをしていた。かためおとこ、と廣光は思ったがそれは言わずに首をたてに振った。
「よかった~。僕、このへん初めてだから迷っちゃっててさ。GPSとマップがなかったら今頃交番のお世話になってたよ......っと、背伸びがそれそろ苦しいな」
 そんなことは聞いてないということまで男はよくしゃべった。もしかしてこいつは今度こそ正真正銘の不審者ではないのかとも思われたが、生憎今は防犯ブザーを持っていなかった。
「僕、長船光忠って言うんだけど、お母さん呼んできてもらえないかな? 多分長船って言ったら伝わるからさ」
 男はにこりと人好きのする笑みを見せ、廣光に頼んだ。インターフォンを押せばいいことじゃないかと思ったが、そういえば今朝壊れただかなんだかと母が言っていたことを思い出す。修理屋だろうか、とも思ったが、長船はどうにもそんな感じがしなかった。なんとなく胡散臭くて、長谷部とはまた違った意味でいやな雰囲気だった。
 とりあえず廣光はクレヨンと絵日記をしまいこむと、母を呼びに家に入った。


・・


「はい。ご無沙汰してます。この辺をよく知らないもので、長谷部くんが見えなかったら、今頃迷子になってました。廣光くんも大きくなりましたね。僕、はじめ見たとき全然わからなくって......。町も開発が進んでますし、あのときから変わらないのは長谷部くんくらいなものだなって思いました。それで、今日の件......。はい、ドライバのバックアップサポートとデータサルベージのケイカホウコクなんですが」 
 長船は家に上がり込むとだいたいこんなようなことをペラペラと言った。
 母の隣でその弁舌爽やかな口上を聞いていた廣光は、長谷部と知り合いということに驚いて耳をすませたが、途中から横文字だらけの込み入った話になってしまって結局のところどういう知り合いなのかわからず仕舞いだった。大人の事情というのは難しい。
 大人の事情というのはよくわからないので、廣光は外に遊びに出ることにした。今日は同田貫や御手杵と市民プールに行く約束をしているのだ。約束の時間は差し迫っていた。廣光は荷物をまとめると、長船と話をする母に「いってきます」と言って出掛けた。
「いってらっしゃい!」
 よそもののくせして、なんでお前の方が声が大きいんだ。やたら溌剌とした長船の声を背にして廣光はため息をついた。
 行き掛けに気になって屋根の上を見上げると、いつの間にか長谷部は居なくなっていた。なんとなく、廣光と同じように長船が嫌だったんだろうなと思った。


・・


「そーいや、俺、こないだ駅前の花屋でお前んちのおじさん見たぜ。長谷部おじさん」
 同田貫が、ビート板を水のなかに沈めながらそんなことを言った。直後、ばしゅっ、と音をたてて勢いよくビート板が飛んで、御手杵の頭にスコーンと当たった。
「いでっ!」
「あ、わりぃ」
「正国、危ないことすんなよな~。......いいなあ。俺も長谷部おじさん見てみたい」
 ビート板の当たった頭をさすりながら、この中で唯一ビート板に掴まらなくても溺れない身長の高さを誇る御手杵はのんびりとした口調で言った。
「......あのな、ラッキーアイテムとかそんなんじゃないんだぞ」
「ええ~? なんかレアキャラじゃん。俺廣光んちの前通るときいっつも屋根の上見るけど、いねえもん」
 めっちゃイケメンらしいじゃん。母ちゃんが言ってた。御手杵がそう続けるも、そんなことを言うのはお前のうちだけだと廣光は呆れる。御手杵のおばさんは、細かいことを気にしがちな息子に似ず結構な楽天家だ。顔がいいからって、宇宙人じみた態度が打ち消されるわけもない。
「それに、人違いだ。長谷部がスーパーに行くとこさえ、見たことないのに」
「つってもよ~。あれ長谷部おじさんだったぜ? おじさん、いっつも白シャツに黒ズボンだろ。花屋だとすっげえ目立つんだよな。サラリーマンみたいでさあ」
「長谷部はサラリーマンじゃない」
 廣光がふくれかえっていると、同田貫は困った風に頬をかいて、見間違いだっけなあと言った。見間違いだろ、と廣光は返した。
 長谷部に、そんな真っ当なことができるわけがないと廣光はほとんど断定していた。廣光の見たことのある長谷部は、初対面のときの棒立ちか、そうでなければ屋根の上にのぼって我が物顔で座っているか、そこから廣光をじっと見ているかのどちらかだったからだ。
 あんなおかしな叔父がいることが恥ずかしかったし、それを他人に言われることはどうにも嫌だった。
「そんなことよりさ~、このあと獅子王んち遊びに行こうぜ。あいつんとこ、じっちゃん居るだろ。4時に道場で合気道のケーコやるから、来たかったら来いっつってたんだよな」
 御手杵が、ビート板を沈めながら言った。自分で注意したくせ、手遊びでついやってしまう。案の定ばしゅ、とビート板が飛んで、同田貫の頭に当たった。
「いってえ!」
「あっ、ごめん」


・・


 獅子王のうちから自宅に帰ると、さすがに長船はもういなかった。母に聞くと、次の仕事にいったのだと返された。
「どこに?」
 他所よ、と母は言った。リビングのテレビがつけっぱなしで、ニュースがひっきりなしに流れていった。廣光は政治や経済のことは全然わからなくて、大人が出てきてなにやらもごもごと言っているのをぼんやりと見ていた。
『ーー次のニュースです。開発特区N地区における国家研究所爆発事故に関する会見が行われることが先日決定しました。なお、同事件では未だに被害者や原因などの詳しい情報が公表されておらず、情報公開の不透明さも問題となっておりますが、サカモトさんはどうお考えでしょうかーー』
 他所とはどこだろうか、と廣光は思った。もしかしたら、長谷部が来たところと同じかもしれない。なんとなくそう感じていた。
『ーー恐らくこの会見で明らかになるでしょう。有害物質の流出などの生命にかかわる問題はないということだけはかろうじて報道されていますが、憶測が憶測を呼んでいる今の状況は政府としても好ましくないでしょう。そもそもこの第八番シェルター全域と『外』に関わることなので、これ以上のだんまりということは流石にないかとーー』
 ニュースがつらつらと流れる。爆発事故のことは、ひっきりなしに流れていたので廣光もよく知っている。知ってはいるけれど、どういうことかはよくわからなかった。ただ、母が怖いわね、というので、怖いな、とは思っていた。
「あの人、長船さん。ここ出身だけど、今は『外』の人なの」
 流れ続けていたニュースを見ていた母が、ぽろりと溢した。
「誰にも言っちゃだめよ」
 廣光に言い聞かせる言葉は真剣だった。ああ、だから長船はあんなに変な感じがしたのか、とそこで廣光は合点がいった。
 『外』の人間は、廣光たちと違って毎日が戦場なのだという。
 どこもかしこも平和なこっち(シェルター、と大人は呼んでいる)と違って、『外』の世界はもう人が住めるような環境ではなく、シェルターの中での利権をめぐって反政府ゲリラと政府軍が戦っているのだと総合の時間で習った。
 先生は「『外』の人は英雄です。英雄のみなさんがお役目を終えて退役されたとき、受け入れてあげるのが私たちのつとめです」と言うけれど、廣光は現実がそううまくいかないということを知っている。獅子王の「じっちゃん」は退役軍人だと自称していて、たまに普通の大人がしないような話をしてくれるからだ。
 『外』に一度でも出た人間は、何かしら理由がない限りシェルターに戻ることはできない。その理由は、大抵がシェルターでの生活に支障をきたしてしまうものばかりだ。だから、本当は受け入れなんてほとんど行われていない。
 退役軍人がいますよ、すてきな余生を送っていますよ、と世間に知らしめるためのパフォーマンスとして「退役軍人」が少しばかりシェルターにやってくるだけだ。それが自分なのだと獅子王のじっちゃんは苦々しい顔をして廣光たちに教えた。お前たちは決して『外』に行こうなんて思うんじゃない。そうも言った。
「長谷部も『外』にいたのか」
 廣光は母に聞いた。それなら筋が通る、と思ったからだ。長谷部が変なのも、『外』の人間である長船が家に来るのも、きっとそのせいだ。
「だから、変なのか」
「その話は、廣光にはちょっと難しいわね」
 母は困った顔をして、お茶を濁した。また大人の都合だ、と廣光はふてくされてソファに体を沈めて丸まった。


・・


 朝顔が咲いた! 廣光は嬉しくて何度も何度も目をこすってそれが現実だということを確認した。踏み荒らされても、すくすくと育ち、花を咲かせる生命の強さといったら! こんなに嬉しいことはなかった。この日ばかりは上から注がれる長谷部の視線も気にならなかった。
 寧ろ、もっと見てくれという気分にさえなった。お前が無慈悲に踏んだ朝顔が、こんなにきれいに咲いているぞと知らせたかった。
 廣光は屋根の上を見上げた。やはり長谷部はじっとこっちを見ていた。
「あ・さ・が・お」
 廣光が大きく口を開けて言うと、長谷部はそれが物珍しかったようで、ぐっと無防備に屋根から身を乗り出した。
 危ない、と廣光が思った直後、そのまま長谷部は落下した。
「あ」
 廣光が声を出すのと、長谷部が地面に頭と身体を打ち付けるのとはほとんど同じだった。 
「長谷部!」
 悲鳴をあげ、地面に倒れて動かない長谷部に廣光は駆け寄った。
「長谷部、おい、なんで、危ないだろ。救急車ーーーー」
「............な、んだ。廣光か。なんでいるんだ? 俺は死んだのか? まあ、どちらにせよ、運がいい。廣光、ちょっと見ないうちに、大きくなって」
「は」
「頭がいたいな。それより、今は、とても頭が冴えている。最後に見たのはほんのちっちゃい時だったからわからなかったが、お前、本当に父さんに似てるよな。うちの血なんか、ちっともひいてるように見えない」
 死にそうなくせして、なんて柔らかい表情をするのだろうか。廣光は、長谷部がまともに喋るところを始めてみた。長谷部のそんな人らしいところを見たことがなかった。この男も、人間らしい感情というものを持ち合わせているということをこの時廣光は初めて知った。
「俺は、こんなクソッタレな世の中で、お前が元気にやってるかどうか、それだけが気がかりで。でもよかった。元気そうじゃないか」
 長谷部はいままでの無口がなんだったのか、というほどにべらべらとよくしゃべった。まるで、生きている人間のようだった。
 死ぬ間際になって、人間らしくなってどうする! 廣光はひどく腹を立てた。そんな顔ができるなら、普段からしろ! と腹を立てて、ポケットの携帯電話で119番に電話をした。
「もしもし、救急車を、はやく! うちでひとが、屋根から落ちて。頭を打ってます。それで、住所はーーーー」
「携帯電話か? 凄いな、最近のこどもはみんな持ってる。俺のときは、全然そんなことはなくて」
「うるさい、黙れ」
「反抗期か。いや、泣いてるのか? 泣き顔は似合わないぞ。ここで生きるんだから、強くなくちゃな」
「......うるさいッ!」
「悲しいときは上を見ろよ、そしたら、ちょっとはいいことあるかもなあ」
 長谷部はけらけらと笑った。紫色の目にはきちんと生気があって、宇宙人だとは、そして『外』の人間とは思えなかった。
 ほどなくして、救急車が駆けつけた。そのころには、長谷部は眠ってしまっていた。


・・


 医者曰く、命に別状はないらしい、ということだった。
 廣光はしばらく長谷部のそばからはなれなかったが、どこから話を聞いてきたのか長船が慌てた様子で駆けつけて、医者に二三何事かを話すと、すぐに長谷部は隔離病棟に移された。
「ごめんね、長谷部くんにはちょっと大人の事情があるんだ」
 なかなか長谷部と離れたがらない廣光に向かって、長船はそう言った。大人の事情というのは全く理解できなかったし、謝る気がちっとも無さそうな口調にはやはり胡散臭さを感じてしまった。
 やっぱり、長谷部は正真正銘『外』の人間で、大人はそれをよってたかって隠そうとしているんだと廣光は思った。
 しかし、それでは、あの人間らしい長谷部はなんだったのか。説明がつかなかった。長谷部の病室には大人がひっきりなしに入ったり出たりしたが、誰も廣光にほんとうのことを教えてはくれない。それがもどかしくて、悔しかった。
 「ヒケンシャが」「爆発でのハソンは激しかったはず」「システムが生きていたのか」大人たちはそんなふうなことを口々に言っていた。廣光にはやはりよくわからなかった。ただ長谷部が眠り続けていることが心配だった。
 しかし廣光の心配をよそに、長谷部はわりあいすぐに目を覚まし、誰も見ていない隙にふらっと家に帰ってしまった。
 慌てて家に帰って見ると、また屋根の上に座っていた。それからは、もうあのときのようになにか喋ったりすることはなかった。
 なんとなく、あれで正気にもどったのではないか、と思っていたのだけれど、実際はそんなに甘くはなかった。長谷部はあの頭のおかしな長谷部のままだった。
 廣光がそれが残念でならなかった。あの、人間のような顔をした叔父の顔が、言葉がどうしても忘れられなくて、悲しかった。
 そんなことがあっても、夏休みはまだ続いていた。廣光の朝顔はもうとっくにしぼんで、緑の実をつけていた。廣光はそれを絵日記にスケッチした。

 そして、それを長谷部は屋根の上からじっと見ていた。大人たちは彼のズボンのうしろポケットに、朝顔の種のふくろがくちゃくちゃになって入っていたことが報告されたが、だれも話題にしなかった。

end

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