ノーサイド
(加州清光×同田貫正国 同田貫が泣く)
ノー‐サイド(no side)
《敵・味方の区別がない意》
1 ラグビーで、試合終了のこと。
2 (比喩的に)戦いや争いが終わったのち、互いの健闘をたたえ合うこと。また、和解 すること
(デジタル大辞泉より)
1
刀に何を求めるか、ということは同田貫正国にとっては質問にすらならない問題であった。強さ。敵を一振りでたたっきる為だけの、圧倒的な強さだ。それ以外に何があるだろう。
同田貫の思考回路は至って明快、悪く言えば単純だ。実戦で使えるか、もしくは使えないか。その二択しか、同田貫の頭の中には判断基準がないのだ。どんなに良い刀であっても、使ってもらえなければただの鉄くずに等しい。刀は主を守る為の武器であって、それ以上のごてごてしたあれやそれに付加価値がつくことは彼には理解しがたいことだった。同田貫は戦のことしかわからない。頭にない。刀が存在するのは戦があるからで、刀が存在するからには戦わなければならないのだと、そう信じてはばからない。
したがって戦馬鹿と言って差し支えないであろう彼、同田貫正国は、今現在同じ部隊に所属している加州清光の行動の何から何まですべてが奇怪で意味のないことのように思えてならないのだった。清光は自分自身の武器としての価値を自認した上で、それでは愛されない、可愛くなければ大事にされないのだと言う。実戦で役に立てばそれでいいという同田貫にとっては、それはどこか強迫観念めいたもののように感じられた。同意すべき部分がどう考えても見つからないのだ。端的に言えば、気に入らない。
別に彼が特別不愉快だというわけではない。加州清光は武器として優秀だ。武器として役に立つかどうかという点だけに焦点を当てれば、他にも同田貫からすれば美術品同然の刀はいる。腑抜けだなんだと相手に向かって口を出したことは断じてないが、そういう風に思うことも多々ある。思っても無粋なことだと片づけて、しまい込むのがいつものことだった。今の主である審神者なる人間の刀剣は一振りだけではない。多くの場合は六振り一隊。単刀編成で戦うこともままあれど、本丸や、ひいては戦場において常に誰かしら傍にいるのだ。口数の多いものもいれば、誰とも深く関わろうとしないものもいる。それぞれの刀剣が、それぞれの事情を抱えていることなんて誰かが言わなくても分かった。だから、仲間と任務をこなしていくうちに、相手の事情にやたらめったら口を挟まないこと、という不文律が生まれるのも無理のないことだった。合戦を経るごとに鋭く、強くなっていく反面、同田貫は自分が集団の中に溶け込み、精神的な意味合いでは丸くなってきているような気さえしていた。
しかしそれはただの思い過ごしだった。受け入れがたいものは受け入れがたいと言うほかないこともある。もともと同田貫はそれほど気が長い方ではない。
「さっさと動けよ。戦は終わったっつの」
かれこれ数分、蹲ったまま動かない加州清光を見下ろして、同田貫は嘆息した。
今回の部隊は同田貫と大倶利伽羅、今剣、大和守安定、獅子王、そして加州清光だった。
隊長に任命されたことが相当嬉しかったらしい獅子王がいつもより張り切って敵を片づけ誉をとったせいか、さほど何もすることもなく終わってしまった同田貫は自分の出番を取られたようで虫の居所がよくない。せっかく一緒に出陣している旧知の大和守ではなく、よりによって自分が何故こいつの面倒をみなければならないのだ、という思いでしゃがみこんでいる加州を見ていた。
「ボロボロだから帰りたくない」
「......しゃあねえだろ。戦してんだ、そういうときもある」
「なんで俺が中傷でお前はなんもないの。世の中って理不尽」
「それが世の中なんじゃねーの」
「うっさい!」
同田貫は小さく舌打ちをした。こうなると言うことを聞きやしないということはもう何度も共に出陣しているからよくわかっている。頑なに顔を上げようとしない加州の頭頂部を見つめながら同田貫は少しだけ間を置いて、「いいからさっさと帰んぞ。」とぶっきらぼうに言った。扱いにくい相手だ。そりが合わないことはもうよくよく分かっている。古今東西の刀剣を見渡しても、これほど合わないのはいないだろうと思うくらいだ。
「いやだ」
「いつまでもそんなとこいちゃあ、あんたの大好きな主に会えねえぞ」
「こんな汚いのに、会えるわけがねえもん」
「へっ、うじうじしてる方が嫌われると思うけどな」
同田貫の嫌味に、ぱっと弾かれるように加州が顔を上げた。確かにご自慢の綺麗な顔は砂埃を被っていた上に、頬には痛々しい切り傷さえあった。だから顔を背けていたのか、と納得がいった。けれどもちゃんと手入れさえすれば、どんな傷であろうと痕になるようなものはないことは加州自身も分かっていることだろう。修復すれば、もとの憎たらしいほどにこぎれいな顔になるはずだ。何をこんなことで、と同田貫は呆れる。呆れてしまった。それがいけなかった。
「......っさい! 俺のこと、嫌いなのはお前の方だろ!」
加州の声が同田貫の耳を打つ。まるで仇を見るかのような形相だった。加州にとって嫌われる、という言葉は禁句だと知っているはずなのに、その時の同田貫はそれを口に出してしまった。
自分の弱いところは自分で言っているうちは気にならないが、他の刀につつかれると痛いものだ。生憎加州は弱点を自らさらけ出すのはよくても、他人に無遠慮に暴かれるのは嫌だという性格だった。だから嫌われる、と同田貫に口に出されたのが癇に障ってしょうがなかった。
「気に食わないってのがバレバレなんだよ。俺のスタンスが。分かんないくらい鈍感じゃないぜ、俺は」
一方で、同田貫も同じ状態に陥っていた。嫌いなのはお前の方だろ、と言われて、かっと頭に血が上った。聞き捨てならないと思った。今まで同田貫は加州に対してそこそこ寛容だった、はずなのだ。それなのに価値観の違う相手を受け入れるような顔をして、本当はただ相手の気にくわない部分から目をそらしていただけなんだろう、とよりにもよって加州清光に決めつけられて、背後から一太刀あびせられたような気分になった。
この日は本当に良くなかった。お互い疲れていた。虫の居所が悪かった。同田貫はやり場のない闘志を持て余していたし、敵から集中的に攻撃を食らった加州はいらついていた。だから、常に互いの間でくすぶっていた火種がこの時発火したのは本当に不運の上に不運が重なっただけのことだったのだろう。
「いい加減にしろ!」と同田貫は怒鳴った。あまり考えず、ただ黙らせたい一心でねじ伏せようとした。しかし悔しいことに加州はそんな威嚇が通じるような相手ではない。それからは売り言葉に買い言葉、果てにはお互い戦で疲れた体を無駄に酷使して、取っ組み合いの大喧嘩に発展した。まだ獲物を抜かないだけの分別があったのは幸いだった。同田貫は喚く加州の胸倉をつかんで、 加州は唸る同田貫の脛を蹴り飛ばした。
「おいっ、何やってるんだよ!」
未だ合流しない二人を心配した大和守安定が既に解体の始まっている合戦拠点からやってきたのはちょうどそんな時だった。飛び出すように二人の間に割って入り、揉み合う二人を勢いよく突き飛ばした。同田貫はたたらを踏み、加州は倒れそうになったところで大和守に腕を強く引かれた。加州の赤く塗った爪は握りこぶしの中で手のひらに食い込んでいて、いつでも同田貫を殴りつけられる体勢だった。
「なんで邪魔すんだよ!」
「今あんたに用はねえんだ、水差すんじゃねーよ」
怒りに燃え、冷静さを失った二対の瞳が大和守を睨みつけた。同田貫はもはや自分がなぜ加州を探していたかも忘れてしまっているようだったし、加州は自分が中傷状態であることをすっぱり忘れてしまっているようだった。
「落ち着いてよ。なあ、何があったんだ? こんなところで喧嘩なんて馬鹿らしいじゃないか。何が楽しくって、仲間同士で戦をおっぱじめるっていうんだ。しかも、一仕事終えたばかりだっていうのに!」
分かってんのか、と次第に熱が籠り口調も荒っぽくなっていく大和守とは反対に、同田貫と加州は徐々に冷静さを取り戻そうとしていた。
「なんでもないから」
先に口を開いたのは加州だった。呼吸を整えるようにして胸のあたりを触りながら、ふいと顔をそむけた。そのまま大和守の手を振り払うと、「帰る。」とだけ言って合戦拠点の方に足を向ける。妙に冷めた表情だった。かっとなったのを恥じていても、同田貫や大和守に知られたくなくてそれを無理やり隠そうとしているのかもしれなかった。帰りたくないと言っていたのが嘘のように、すたすたと歩いていく後姿を同田貫と大和守は茫然と見送った。
「なんでも? 何でもない、ね。なんもなきゃ、喧嘩なんてしないんじゃないの?」
「まあ、あるとしても、いろいろあんだよ」
「ふうん。いろいろねえ」
「あんたもしつけえな」
「僕はわざわざ戦勝を収めたあとに、気分が沈むようなことをするのには反対なんだ」
「......そうかよ」
放っておかれた同田貫と大和守はしばらく黙ってだんだんと小さくなる背中を眺めていたが、加州が石ころに躓いたのを見て彼が中傷なのを思い出し、はっと我に返った。
同田貫はそのつもりはなかったとはいえ、傷を負った相手に手を上げたのを加州と旧知の仲である大和守に知られてしまったことに居心地が悪くなって、「悪かった」と一言だけ言い置くとそれきり押し黙った。実際のところ大和守は、一応注意自体はしたものの別段同田貫をこれ以上責めるつもりはなかったので、同田貫の杞憂ということになる。
「まあ、切り替えてくれればいいから。もう分かってるとは思うけど、あいつ、結構気分変わりやすい奴だし。」
短慮なところがあるものの、基本的には真面目なのだろうと大和守は思って軽く肩を叩き、加州清光に手を貸すために足早にその場を立ち去った。同田貫は少し遅れて、後を追う。
加州清光、大和守安定、同田貫正国が部隊に合流したときにはもうすでに拠点の解体は済んでいた。「おっそいんだよ! 何してたんだよもー。」と今回の隊長たる獅子王はお待ちかねの様子で、ぶうぶうと文句を言ったが、「つかれているみたいですよ。」と今剣に耳打ちされてすぐさま軽歩兵に指示を出し、加州のための輿を用意させた。大倶利伽羅は一瞥しただけで、特になんの発言もしない。そもそも彼は他の刀剣にはあまり興味がないのだから、いつものことと言える。
「......手入れしてもらえるよな?」
加州は不安そうに輿に乗り込んだ。あの場に居たくなくて帰るとはいったものの、全身に負った傷を気にしていないわけではなかった。一度ついた傷は、疲労と違って手入れしてもらわないと治らない。本丸の手入れ部屋はまだ二室しかないので、他の刀剣たちの負傷状況によっては遠征から帰還してもそのままにされてしまうとも限らない。それを仕方がないと捉えるか、愛されないと捉えるかはそれぞれ違う。加州は圧倒的に後者だった。
「あんまり心配しないこと。そんなに見た目ほどひどい傷でもないよ」
大和守は慣れた仕草で加州を宥める。主も彼の性格を鑑みて、一番に手入れ部屋に入れてくれることだろうと大和守をはじめとする部隊の面々は思っていた。それでも加州自身はそうと信じられないらしかった。
そんなに見た目ほどひどい傷ではない、という大和守安定の言葉を聞いて、ああやっぱ奴は大げさだったんだじゃねーか、と同田貫は頭の隅で考えた。しかし大げさだったとしても中傷であることには変わりない。中傷状態の仲間に手を上げたという事実も変わらない。悪いことをした、とも思った。相手が悪いというのも、自分が悪いというのも、どちらも正直な気持ちだった。どうにもすっきりしない。ひどい喧嘩はするもんじゃない。嫌いなのはお前だろ、という加州清光の言葉が耳に残っていた。
2
三日月宗近は畑仕事を終え、縁側でのんびりと外を眺めていた。審神者の力の影響で時に青々と緑の繁る景観であったり、時に雪の降る庭だったりするそれを見るのが三日月の趣味だ。なんと表現していいか自分でも分からないが、例えるなら自分を付喪神として権現させた力のような、超自然的ななにものかを感じることができるから、と説明することにしていた。
気の長い彼は放っておくといつまでも同じように外を見続けるので、合戦から第一部隊が戻ったということを知ったのは畑当番を共にしていながら今回出陣をこなしていた今剣が顔を出したときだった。
「おや、帰ったのか。手入れはいいのか?」
「まだ、へやがあいてないんです」
砂埃のにおいがする小さな体が、三日月の背中にもたれかかる。資材も、部屋も限られているから仕方がないのだろう。玉鋼が、砥石が、と目録を見ながら頭を抱える主の姿が三日月の頭に浮かんだ。「皆無事なのか」と三日月が問うと、今剣はうーんと唸った。
「ぶじなような、ぶじでないような」
「撤退したのか?」
「いえ、そうではないんですが......。ちょっと、けんかがあって......」
「なるほど、喧嘩か」
なにやら言いにくそうにする今剣の視線をたどると、兜を持って庭を闊歩する同田貫正国の姿があった。足取りは乱暴で、今回合戦に出た面々を思い浮かべ、三日月は大体の事情を察した。同田貫の機嫌が悪いとなると、相手は大倶利伽羅か、それとも加州清光か。目配せをすると、今剣は加州清光だとひそひそ声で伝えた。
「おたがい、なかがよくないみたいで」
「そうだな。しょっちゅう、言い合いをしている」
「けんかはよくないとおもうんですけど」
「喧嘩にも、良い悪いはあるだろうがなあ」
「あるんですか?」
今剣は不思議そうに深い赤色をした目を瞬かせた。三日月は「あると思うぞ。」と答えて肩に乗った今剣の頭を軽く撫でる。今剣は誘導されるように三日月の脇の下をするりと通ると、膝の上に移動した。いつも相手をしている岩融は長期遠征に出かけているので寂しいのだろうと思い、猫がじゃれ付くような恰好で甘えてくる今剣を優しく撫でてやる。
「たとえば加州清光は大和守安定ともしばしば喧嘩をしているんだが、あれはじゃれてるようなものだしな」
「ほう」
「しかし、お互い深く傷つけあうだけの喧嘩はよくない。すっきりしない上、憎み合うかもしれん」
「なるほどー」
年寄りは兎角お喋りだ。少なくとも三日月はそうだ。自分の始めた話題を長々と続ける三日月にふむふむ、と頷いてみせる今剣は話半分で遠ざかる同田貫の背中を見つめた。ずんずんと乱暴に歩いてゆく姿は、傷ついているというよりはふてくされているという風だった。確かにすっきりはしていなさそうだ。今剣はなんとなく、怒っている同田貫には近寄りたくないと思った。怖がりの後虎退なら震えあがって布団に隠れてしまうだろう。それくらい、今の同田貫は近寄りがたい。
「さようなことは、もうせずともいいと思うんだがなあ」
「はい。ぼくもみんな、なかよしがいいとおもいます」
同じ審神者に呼び出された刀剣同士、上手くやって行ければいいと三日月は思う。それぞれ事情はあろうが、なんにせよ、自分が刀として生きた時代より何世紀もたったこの時代。楽しいことも興味深いことも尽きず、喧嘩に裂く時間さえもったいないと感じるほどだ。
「皆もっと気楽に、やっていればいいのだ。今となってはもう付喪神であるがゆえ、あまりそれまでの自分に固執する必要はないのではないか?」
「わすれるってことですか? よしつねこうのことも?」
三日月が正直な気持ちを伝えると、今剣はさっと顔を曇らせた。今剣の以前の主、義経公とは最期の時まで一緒にいたのだと聞き及んでいた三日月は、悲しそうな顔をする今剣に向かって、「忘れるのとは違うな。」と付け加えた。
「いうなれば、そうだ。セカンドライフ」
「せかんどらいふ」
曰く、外国の言葉だというそれは今剣には聞きなれないものだった。ぽんぽんと背中をなだめるように叩かれながら、今剣はそれを繰り返した。「せかんどらいふ」今、初めて聞いたが、耳に残る響きだった。
「主が教えてくれたのだが。簡単に言うと、新しい生活や第二の生という意味だ。まっさらで、新しい自分。そういうふうに思えば、気負わなくても済みそうなものなのだがなあ」
三日月は遠い目をして、同田貫のいたあたりを見た。彼はもうどこかへ行ってしまっていた。あの調子だと修練場に飛び込んで手合せに乱入しているかもしれない。今日手合せをしているのは誰だったか三日月は知らないが、少しだけ気の毒なことだと思った。今剣もそれに習って庭をしばらく眺めていたが、間をおいて、「でも、」とつぶやいた。
「もしかしたら、あたらしいじぶんだからこそ、そうやっていろいろとこだわるのかもしれません」
「かもしれんな。難しいことだ」
そこで突然ぐう、と腹の鳴る音がした。むずかしいですね、と言いかけた口があんぐり空いたまま止まった今剣の顔があまりにも間が抜けていて可愛らしく、三日月は大きく笑った。
「......むずかしいことをかんがえると、おなかがすきますね」
「そうだな。主から変わったお菓子を貰ったのでな、それでも食べるとしようか」
照れ隠しにぶすくれるのも愛らしく、三日月は「すまんすまん。」と半笑いで謝りながら今剣の機嫌を取った。お菓子につられて、不満げな表情から一転ぱっと明るくなる。
「わあ、どんなおかしですか?」
「ああそうだ。とても美味そうなんだ。これだからセカンドライフは止められない」
「せかんどらいふ、ばんざいですね」
今剣はお菓子への興味に胸を膨らませながら、みんながそうやって「セカンドライフ万歳!」と言えたらどんなにいいことかと思った。命を賭した歴史修正主義者との戦いがあればこそ、こうして本丸で美味しいものを食べたりすることができるのだということは分かってはいたが、三日月も、今剣も敢えて触れようとはしなかった。
3
本丸に帰って早々、慌てて手入れ部屋に回された加州清光は、血相を変えた主の顔を見ていくばくか溜飲を下げたものの、やはり同田貫正国の発言を許しがたいと思っていた。
「......何が嫌われると思うけどな、だ。馬鹿にしてる」
あの呆れてもうそれ以上言いようがありません、というような見下したような目と、その言葉は加州の自尊心をいたく傷つけた。そもそも元より気に入らない相手だ。武器にだって、綺麗にしたり可愛くしたりする権利はあるはずだと加州は思い、そうすればそうでないよりも愛されるだろう、と考えている。兜が割れたって、割る兜がなければ意味がない。意味がなければ価値もない。なら、価値を与える要素は多ければ多いほどいいに決まっている。手入れを受けながら、加州は知らず知らずのうちに愚痴を漏らしていた。
「よっ、喧嘩したんだって?」
「うわっ!」
突然声をかけられ、驚きのあまり清光は固まった。隣の部屋は埋まっていないはずだったが、「どっきり大成功、ってな」と言ってけらけら笑う顔がふすまから覗いている。鶴の様に白く、透明感のある相貌は気色ばんで、遊び盛りの子供のようだ。言わずとしれた鶴丸国永だった。悪戯好きで、すぐこうして誰かをからかおうとするが、加州よりもずっと年かさだ。
「なんだよ、びっくりしたじゃん!」
「それは良かった。王道は踏襲してこその王道だからな」
「なんなんだよ、もう......」
鶴丸の言う悪戯の王道や邪道がなんなのか、加州は知るよしもないが、文句を言っても通じないということくらいはよくわかる。悪びれるどころか、生き生きとしているその顔を見ると、彼とまともに渡り合う気など起きそうもない。腹が立つ前に、脱力してしまうからだ。
「折角先客がいるなら、驚かせた方が得ってものだろうと思って」
「手入れ長引いたらどうしてくれんだよ」
「ほほう、それは主も驚くな」
加州がぼやくと、きらりと鶴丸の目が輝く。「やめてってば」と投げやりに咎めるにとどめて、加州は相手の手入れ時間を聞いた。「五時間と少しだ」と言われ、やっぱり太刀は長いのだなと改めて感じた。手入れは気持ちいいし、軽い傷でも回してもらえると愛されていると分かって嬉しい反面、あんまり長いとどこにも行けず、辟易することもある。案の定、鶴丸もそうらしい。「五時間はまだましなほうだ」と付け加えて彼は肩をすくめた。
「いつまでもここに籠りっきりってのもつまらないんだけどなあ。君がいなくなったら鶯丸でも呼んで、碁でも打とうか」
どうやら手入れの間、加州と無駄話をして過ごすつもりらしい。鶴丸はふすまを全開にして、大胆にも部屋と部屋をつなげて見せた。どうだ、驚いたかと言わんばかりに見てくる彼の期待に応えてやるのも面倒くさく、そこには触れないことにして、加州は碁なんか打てるのかと聞いた。しかしそれこそが鶴丸の期待していた反応だったのか、それとももう反応さえあればなんでも嬉しいのか、待ってましたと言わんばかりににっこり笑って、「さっぱりだな!」と高らかに声を上げた。
「はあ?」
「でもオセロは覚えた。今度対局を見せてやろう」
「キョーミないって」
なぜそこでオセロ。碁の話をしてたんじゃないのか。鶯丸もオセロを? というかオセロってそもそもなんだ? 湧き上がる疑問の泉にふたをして、加州はむっつりとした表情を装う。まともに取り合ってはいけない。
「そこは誰とやるのか聞いてくれないと困るんだがなあ」
「誰とやるのさ」
「驚くぞ、一人だ」
「馬鹿!」
ぐでんと頭を垂れ、脱力する加州。やっぱりまともに取り合うんじゃなかった、と額に手をやる。しかし部屋にいるのは自分と彼ばかりとなると、なんだかんだで話を続けてしまうものだ。しばらくたわいもない世間話をしたところで、ふと鶴丸は真顔になって、「そういえば話を戻すようだが、」と言った。
「喧嘩したんだってな」
もうそんなところまで話が伝わっているのか、と加州は渋い顔になる。部屋の空気がずんと重くなったように感じられた。うじうじしてる方が嫌われると思うけどな、という無神経な言葉を思い出し、苦々しい気分になる。当分許せそうにない。そもそも許す気もない。喧嘩という言葉さえも煩わしく、あいつが余計なこと言うからだと吐き捨てた。
「いい加減毎度毎度同じ言い訳は飽きるぜー」
「お説教なら聞かないからな」
「説教? そんなに説教臭かったか? 年は取りたくないもんだ」
「あー、あー、そのつもりがないんだったら別にいいけど」
「おっと、意外だな。叱られると思っていたなんて。こりゃひどくやりあったな?」
「関係ないだろ」
「しかも、すっきりしていない。誰かに仲裁されただろ」
「推理すんな!」
「先に手をだした。カチンときたから」
「同時だった!」
「おや同時だったか」
悪い悪いと言いつつ全然悪いと思っていない顔だ。でも、不思議と腹は立たない。鶴丸のおおらかで必要以上に自分の意見を押し付けたりしない柔軟な態度は、すさんだ加州の心をあっという間に溶かしてしまった。なんせ、頑なに仲間と馴れ合おうとしないあの大倶利伽羅と旧知とはいえうまく折り合いをつけてやっているくらいなのだから、本来寂しがりやで構われたがりなところのある加州がそうなるのも当然だった。
「あいつが悪いんだ。脳筋でさ、ほんと頭悪いの」
そう言い始めたら腹に溜まったうっぷんがあとからあとから喉をせり上がって来てしまい、別に聞くよと言われたわけでもないのに加州はいつの間にやら愚痴をこぼしてしていた。
「あいつ、役に立つか役に立たないかだけで物事を考えてるんだよ」
「ああ、そういう考えがあってもあまり驚きはしないよ。俺は」
「まあそうなんだけど。そうなんだけど......。そうだ、うん、別に俺だってそんなさ、他人の考えを否定したいわけじゃないんだぜ。確かにさ、ちょっと我儘なとこあったかもしれないけど、可愛くなろうとか、愛されたいっていうのを馬鹿にされたら、そりゃ怒るって。お前のこと理解できないしするつもりもないけど、自分は寛大だから許してやるよみたいな? あんまりじゃん、そんなのさ」
一度こぼれ始めると、不満の奔流は止まらなかった。あれも、これも、とためにためた文句が勝手に溢れ出てくる。人は女々しいと笑うかもしれないが、加州は泣きそうになりながら、自分の声がだんだんと大きくなるのを感じていた。
「それって結局、嫉妬なんじゃん!」
だから、俺は悪くなんかない! 加州は心の底からそう思った。そして思いの分だけ大きな声で喚いた。
加州は自分の考えを言うのに精一杯だったので、障子の向こうで誰かが聞いているなんていうことは思いもしなかったし、またそれが不幸なことにも当の同田貫正国本人だなんてなおのこと気づけるわけもなかった。
「......誰が、なんだって」
低く、地を這うような声が障子の隙間をぬって、加州の耳に響いた。もうそれだけで薄紙は破れて散っていってしまいそうな怒気を孕んでいた。その裏で、「やめろって。」だとか「落ち着け!」という声も微かに聞こえてくる。御手杵の声だったように思うが、姿が見えないためよくわからない。
しかし加州の加熱した頭は、聞かれてしまったという焦りが生まれることさえ出来ないほどで、加州は障子越しに見える男に向かって丁寧にもう一度だけ言ってやることにした。
「あんたが、俺に、嫉妬してるって言ってんの!」
言ってやった、言ってやった! 鶴丸に向かって気持ちを打ち明けていたときとは打って変わって、加州清光はにんまりと口の端をつり上げ上機嫌になって、小躍りしそうなほどだった。
大分、意地の悪い口をきいてしまったけれど、相手はあの同田貫正国で、主ではない。愛される必要性なんてこれっぽっちもない相手。愛してなんかほしくない相手。加州の気持ちを全く理解しようとしない、気に食わない打刀。愛されることを否定して、愛されたいという加州の願いに、それを叶えるための努力に、あわれなものを見ているようなまなざしをおくる嫌な奴だ。
すぱん! と障子が開く音で、ようやく事態を飲み込めたらしい鶴丸が慌てて諌めるも、加州は聞かなかった。また、同田貫と共にいた御手杵も同田貫の背を押してなんとか手入れ部屋の前から立ち去らせようとしていたが、同田貫はその場に足を踏ん張って動こうとしなかった。敵前逃亡は許されない、と加州を見ていた。
「あんたさ、そんな後生大事に割れた兜抱えてるけど、兜が割れるからってなに? それで愛されるって言うわけ? 割れなくなった時のこと、少しでも考えたことあんの?」
「ある。使やあ刀身もぼろになる。割れなくなる日もいつか来んだって、そんなこと誰だって分からあ」
「......刃が欠けたら? 武器として生きられなくなったらどうすんの?」
「んなの、あったり前だろ。そこで仕舞だ。それこそ刀にふさわしい」
「俺はそれがやなんだってば!」
手入れ中で上手く動けない加州は、畳を強く叩いて主張を強めた。使えなくなったらおしまいだとか、致命的な損傷を受けたらお払い箱だとか、そういうのが加州は本気で嫌だ。
「俺は、あんたみたいな不恰好で、強いだけがとりえの使い捨てなんかとは違うんだ。愛されたい。俺が誰かの唯一無二になりたい。そう思ってる」
武器として使えるうちは、全力で期待に応える。でも、出来れば愛着をもってもらいたい。武器として使えなくなっても、傍に置いてほしい。加州はそう捲し立てて、最後にじろっと同田貫を睨んだ。
「そのためには可愛くなくっちゃいけない。なんか文句ある?」
かつてこんなに気分のいいことがあっただろうか。思いの丈を全部ぶつけて、煽るだけ煽って、加州は満足した。同田貫は何も言い返してはこない。それだけで、充分加州の優越感を満たした。たまたま自分より細身だからって、侮っていると痛い目に遭う。打刀を帯刀していても、それで安心してしまっていたら短刀で胸をひと突き、なんてこともありうる。つまりは、相手を見くびっていてはいけないということだ。
そうして悦に入っていた加州は、何も返してこない同田貫がどんな顔をしていたか見ていなかった。興味がなかったのだ。言い負かした、ついに、あいつを。それだけで頭が一杯だった。
「ああ、聞いた俺が悪かった! もういいだろう、なあ、少し黙ろうぜ。せっかく手入れしたってのに、傷口が開くかもしれないだろ。同田貫も、用がないなら帰った帰った!」
「そ、そうだ。ほら、これから馬屋に行くんだろ。早くしないと来るのが遅いって、鯰尾に馬糞ぶつけられるかもしれないし。俺の方も、蜻蛉切が待ってるし、な!」
加州が同田貫に興味を失ったお陰でようやく仲裁に入れた鶴丸と御手杵は、気まずそうな顔で同田貫をその場から退出させた。同田貫は、今度は逆らわなかった。御手杵に押されるまま、その場からゆるゆると離れていった。
「こういうのは、あまりいいとは言えないな」
再び静かになった手入れ部屋に、鶴丸の言葉はよく響いた。けれど、加州の耳には入らなかった。
4
草木も眠る丑三つ時。その様相に様変わりした庭園の風景を、とっくりに入れた少々の酒とともに楽しむのがここ最近の歌仙の習慣だった。また、楽しみでもある。宴会の輪に誘われても、断ることもしばしばだ。飲んで騒いでするよりかは、一人で月を眺めるほうが風流を好む歌仙の性に合っていた。今日も、宴席からとっくりをくすねて、庭を散歩していた。
今の景趣は桜が五分咲きの春。花見には少し物足りないとも、これはこれでしみじみとした風景とも言える。「どうせなら、満開の桜を見ながら酒を飲みたいもんだなあ」とぼやいた和泉守兼定のせいで、酔っぱらった堀川国広が酒を桜の根元にぶちまけていたあのとんでもない乱痴気騒ぎが歌仙の脳裏に蘇る。しかし庭園は驚くほど静かで、あんなところに先ほどまでいたとは考えられない程だ。僕の頭の中の方がうるさいかもしれないな、と思いながら歌仙はとっくりをぐびりとやった。すると、どこからかぽちゃん、ぽちゃんと何かが水中に落ちる音が聞こえてきた。
なんだ、と思い池の方に足を向けると、池端の岩に同田貫正国が座り込んで小石を投げ込んでいたのだと分かった。同田貫は仏頂面で、波紋を見ていた。
「やあ。きれいな月だね」
「......ああ、歌仙か」
同田貫は抑揚を殺した声で、歌仙の呼びかけに応えた。どこか疲れている様子で、小石を拾っては投げ、拾っては投げを繰り返している。「魚が驚いて死んでしまうよ。」と注意すると、そこでようやくぽちゃんという音が止んだ。
「聞いたよ。喧嘩したんだってね?」
その話を持ち出したのは別に相談に乗ってやろうだとか、責めてやろうと思ったわけではない。このままじゃあこれで、と去るには同田貫があまりに可哀想な顔をしていたし、だからといって彼と歌仙の間に特段会話が弾むような話の種は少ない。今会話を続けるにはそれくらいしかできなかったからだ。
「......本丸じゃあ、おちおち隠し事もできねーな」
「そりゃあ、そんなに広いところでもないからね。噂はすぐひろがるさ」
「ほっといてくれりゃあいいのに。」と同田貫は口をへの字にして鼻を鳴らすが、ほっといたらまたいつこんなことが起こるかもしれないだろうと歌仙は肩をすくめる。
「遠征組にも伝わってて、今はみんなの酒の肴になってるよ」
「......嫌な話だな」
「たぬきが穴倉でめそめそしてるって。しおらしく耳を垂らしてしっぽまいてきゅんきゅん鳴いてるんだって」
「誰だ、そんなこと言ったやつ!」
「鯰尾さ」
「あいつか......」
酔っぱらって、けらけら笑いながら狸の鳴き真似をする鯰尾藤四郎の姿が二人の頭に浮かんだ。同田貫は歌仙のように見てきたわけでもないのに、その姿は容易に想像できた。あの後、半ば引きずるようにして御手杵に連れられた馬屋では、散々な目にあったのだ。
「あいつにゃ、言い負かされて尻尾巻いて逃げて来たんですか、なんて言われちまったよ」
「はは、言いそうだね」
「別に、全部が全部あいつの言う通り、ってわけじゃねえんだけどな」
「でも、慰めてくれたろう?」
馬当番の作業中に、元気でますよ! と馬糞投げに誘われたとを明かすと、歌仙は「風流じゃないなあ」と顔をしかめた。そして少し間を置いた後、小声で投げたのかどうか聞いた。
「ちょっとだけな」
「彼だと思って?」
「まあ、そうだ」
「すっきりしたかい」
「別に。しなかった」
綺麗な顔が汚れるのを想像しても、全然気分が良くならず、かえってみじめになった。確かに加州の言う通り、自分は彼に嫉妬してるのかもしれない、ということを同田貫は明かす。歌仙と同田貫はもともとさほど仲が良いというわけでもない。ここまで胸の内を明かされたのははじめてだったので、歌仙は少し面喰った。それだけ同田貫は自分の話を聞いてくれる相手が欲しかったのだろう。
「今までそんなつもりは全然なかったんだけどよ、言われてみると、そうかもしんねえって。ちょっと思って」
「君のそれが嫉妬というかはわからないけれど、」
歌仙はそう言い置いて、隣の岩に腰かけた。餌がもらえるものと思って、池の鯉が彼のもとに集まる。生憎酒しか持っていない歌仙は、期待に応えてやることはできなかった。代わりにといってはなんだが、懐に入れていた御猪口に酒を注ぐと、同田貫に分けてやる。同田貫は少し頭を下げて、それを受け取った。
「不寛容になるのは自分が相手より優れていると思っていたところに打撃を受けたり、知られていないと思っていたことを暴かれたりするからだ。不安になって、過剰反応するのさ」
「そんなこと、知らねえよ」
「僕は文系だから、こういうのが好きなのさ。まあ、君はいかにも武辺者って感じだからわからないかもしれないけど。君が悪いって言ってるわけじゃないんだよ」
「るっせ」
ぐっと御猪口の酒を飲みほすと、押し付けるように同田貫はそれを歌仙に返した。そして曲げた足をそろえて、膝に顔を埋めた。所謂三角座りだ。
「ごめん、泣いてしまったかい?」
「泣いてねえ」
すん、と鼻をすする音が聞こえる。確かに泣いてはいないが、泣きそうだということはうかがえた。しかし、励ます言葉は歌仙の語彙にはあまりない。だから、自分の好奇心を優先させてしまった。
「結構図星だったんだろう? 彼に言われたこと」
伏せられた顔が弾かれるようにあげられる。いつもはぎらぎらと攻撃的なほどに光っている三白眼には薄い水の膜が張っていた。そして大きく丸く開かれたそこから、ぼろりと大粒の涙がこぼれた。あちゃあ、やってしまった、と歌仙は渋面になるも、まあここで誰かが言ってやるのも必要だろうと話を続けることにした。風流、つまりものの移ろいや機微を重んじる歌仙ではあれど、他者との関係においてその細やかな神経は作用しないようだ。前の主の影響なのか、そこで何十人も手打ちにしたという過去があるからなのか、それは歌仙自身にも分からないところだった。
「でも、気にしないことだよ。君は君で、彼は彼だ。過干渉はよくない。お互いの為にもね」
「分かってらあ。あいつと俺は違う」
「そうさ。甲と乙、二つの特技があったとして、甲はそこそこのところで満足して乙も高めようとするのが彼で、甲があるから乙のことはどうでもいいとするのが君だ。自分を支える柱を多く持つか、大きい柱一本で支えるか、それだけなんだから」
そこまで言うと、歌仙はとっくりの酒でちびちびと舌を湿らせた。武器として優秀であっても、それでは愛されない、可愛くなければ大事にされないと考える加州清光と、実戦で使えるか、もしくは使えないかの二択しか頭の中には判断基準がない同田貫正国。同じ審神者に呼ばれたもの同士でなければ、付き合いをもつことさえないだろう二人だ。しかも、加州は我が強く、同田貫は短気ときている。同田貫がなんとかうわべだけ取り繕っても、すぐほころびが出る。その破れ目が今回は大きかったということだと歌仙は考えていた。
「どうも、御高説ありがとよ」
同田貫はその自尊心でなんとか涙を抑え込むと、寧ろ怒ったような表情になって、ぶっきらぼうに言った。泣いているよりは、怒っている方が同田貫らしい。ようやく、いつもの同田貫に戻ってきたようだ。
「いいんだ。長い遠征のお供は読書か詩歌を吟ずるかってところだからね」
「褒めた覚えはねえ」
「いいよ、読書は。奈良でSF小説を読んだ時なんかは、これが新しい風流なのかもしれないと思ったね」
「それが風流じゃないことは俺でも分かるぜ」
「大仏のそばで、ガニメデを仰ぐ。新鮮だったよ。いや、ガニメデは見えないんだけどね。想像だよ。最新の季語辞典によると、ガニメデも季語に入ってるんだ。2100年代に入ったんだとかで、俳句の歴史の中では比較的新しいんだけど......」
そう知識をひけらかす歌仙は、もう同田貫と加州のあれこれには言及するつもりはなかった。暴き立てておいてなんだが、他人が踏み入っていいようなところでもない。
「あと今は細川忠輿の出てくる時代小説を読んでいるところで、」
「それどうなんだ......?」
「意外と面白いね」
「はあ」
あとはもうどうでもいいようなことを喋って、同田貫を呆れさせるばかりだった。「前の主の時代小説なんぞ読んでなにが楽しいんだ。」と同田貫が問うと、歌仙は似てないところだと笑って明かした。
歌仙が長々と喋り、同田貫が聞いているんだか、聞いていないんだか分からないような短い相槌を打つ。そんな話ばかり続けていると、やがて歌仙の舌を濡らす酒は切れてしまった。
「ああ。もう酒がない」
「飲んでばっかいるからだろ」
「失礼な、人を飲兵衛みたいに言うもんじゃないよ」
同田貫は立ち上がると、大きく伸びをして、「俺はもう行くからな」と言った。歌仙のいい加減な言葉でも、大分元気が出たようだ。歌仙は別に心配して声をかけたわけではないのに妙に安心して、その姿を見た。景観の変わりやすい庭園の桜は、気付かないうちに葉桜に変わっていた。
「ああ、楽しいセカンドライフを」
「はあ?」
「流行ってるんだ。今」
歌仙は、今剣が吹聴して回っている変な響きの言葉を使って同田貫を見送った。ただなんとなく使ってみたかっただけだ。特別な意味はなかった。気付けば葉桜がまた花を咲かせている。不思議なところだと歌仙は思って空のとっくりを振った。
5
「いやあ、困ったもので。馬には蹴られるし、馬糞を踏むし、穴にこもって泣いてるし、馬糞踏むし!」
わいわいと仲間がひしめく賑やかな宴席の端っこで、鯰尾藤四郎は身振り手振りを交えていかに昼の同田貫正国が困ったちゃんだったかを話していた。
曰く、加州清光の言葉の刃によって心のそこまでずたずたにされた同田貫は、何をやらせても失敗ばかりで馬屋はちょっとした騒動だったらしい。なぜそれを当事者の面前で言うのか加州には理解に苦しむところだったが、酔っぱらった鯰尾に腰をつかまれて動けないために、加州は居心地の悪い思いをしながらそれを聞いていた。
「だから言ってやったんですよ、そんなにつらいなら馬糞でもぶつけたらいいじゃないですかって」
「馬糞、そんなに重要かよ?」
「はい」
「重要なんだ」
「そりゃあもう」
幸いなことに御手杵が代わりに相槌を打ってくれるので、加州がなにかしなければことが進まないということはなかった。御手杵はあの手入れ部屋での口論を見ていたひとりではあったが、加州の顔を見ても居心地が悪そうに「昼は邪魔したな。」と言うだけという懐の深さを見せた。ただ単に酔っぱらって、前後不覚になっているだけかもしれないということは、空になったとっくりから御猪口に出るはずのない酒をいつまでも出しているということから伺える。
「でもね、駄目だったんです。あんなしょげた姿、初めて見ましたよ。相当堪えたんでしょうねえ。何言ったんです? 実際のところ」
「こら、なんてこと言うんだよ。ずけずけと」
「だって、気になるじゃないですかあ。ぶしつけでも、聞きたいもんは聞きたいですよ。まさかあの同田貫正国が、自分の兜を的にするなんて言い出したんですから!」
「......なに?」
「こら、加州の前だぞ」
「本人の前だからいうんじゃないですか。こんなこと滅多にないんです。少なくとも加州さんには知る権利があるってもんですよ」
「権利があるからって押し付けちゃまずいだろ」と御手杵は未だ空のとっくりから出る酒を飲む。鯰尾は加州の膝上に頭を乗っけて、ねえねえと同意を求める。加州はというと、口にしかけたつまみをぼとりと取り落とした。それは見事にじゃれついていた鯰尾の口の中に入って、げほげほと彼はむせることになった。
「なんで、そんなことしたのさ」
「いやそんなことより、水もらえませんか、水。舌がひりひりして......」
「はい、水」
塩辛を口にしてしまった鯰尾は、加州の質問には答えず舌を出して息をした。そんな鯰尾に、あろうことか御手杵は水と言って酒を渡す。鯰尾はそれをがぶがぶと飲むと、甘い水ですねと言う。これはもう長くは持たないだろう、と誰でも分かる飲みっぷりだった。
「ほんと、兜をね、汚すたんびに、迷子の子供みたいな顔するんですよ。泣きゃあいいのに泣きやしない」
「おい、加州になんてこと言うんだ」
「だから別に、責めてやろうってわけじゃないんですって」
「いいよ。俺、気にしてないから」
「ほうら」
「そういう問題じゃないんだって......」
御手杵は困った顔で、頬をかいた。あのあと、何がどうなったかを知られたくないというふうだ。実際、御手杵は鯰尾が言ったなにかしらの影響で、同田貫と加州の関係が修復不可能なところまで粉々に砕け散ってしまうことを恐れているのだった。元々そんな砕けるような親密な関係はないのに、いらない心配をする辺り酔っ払いの思考だということが良く分かる。しらふのような顔をしてはいるものの、御手杵も相当酔っているのだ。本当は。
「ここにいないから言っちゃいますけど、お手柔らかにお願いしますよ。今回のことで本当に参っているみたいで、酒も飲まないどこにも出てこない、痺れを切らして部屋に入ればいないで、ちょっと可哀想になっちゃうくらいなんです」
「そんなの、俺は知らないって。あいつが俺を馬鹿にするからじゃん。そもそもこれは俺とあいつの問題だし」
そう口にすると、痛いところを突かれたと鯰尾は口をつぐんだ。そのまま三人はしばらく酒を勧め、鯰尾は真っ先に酔いつぶれて加州の膝の上でむにゃむにゃと寝言を言い出した。
余計なことばかり言うとは思っていても、賑やかしには重要だったと加州はそこでやっと気づいた。他の面々はこの奇妙な雰囲気になってしまった三人の間に入ってくることはない。そもそもみんな酔っ払いすぎて気にしているかさえ微妙なラインだ。
ふらっと現れて酒の入ったとっくりをくすねて行った歌仙がこの場にいれば、とも思った。あの現場を見ていた御手杵とサシで飲むというのはお互い酔いの回った状態でも、いい気分のするものではない。
「あのさ、」
切り出したのは御手杵の方からだった。空じゃなく中身の入ったとっくりを手にして、おもむろに加州の杯に注ぎながら、「俺は突く事ならだれにも負けないと思ってるんだけど」と話を始めた。
「でもまあ、裏返せば突くしか出来ないってことなんだよな。加州は色々出来るだろ。装飾も綺麗だし。そういうところ、いいなって思うんだよ。俺はな。でも、同田貫って『だけは』って奴なんだと思うんだよなあ。これだけは譲れないってモンがあるんだよ」
「何が言いたいか、よく分からないんだけど」
「あ、例え悪い? 説明すんの苦手なんだよな......。まあ、あれだ。同田貫は俺みたいに卑屈じゃない。それで、ちょっと......いや、かなり、素直じゃないんだよ。それに基本的には強いんだけど、急所突かれるとてんで駄目だったりとかさ」
「すぐかっとなったりしてめんどくさいかもしれないけど、あんまり嫌わないでくれよ」と御手杵は眉を下げてみせた。加州にはなんでそんなに他人のことに心を砕いてあれこれ言うのかさっぱり分からない。「仲がいいんだ」と言えば、「打刀の中じゃあよく話すほうだから」と言われた。
「......俺からあいつにも言っとくからさ。なにも、親友になれってわけじゃないんだ。そりが合わないなりに、任務をこなすうえでちょうどいい距離感をもって付き合っていこうってことで、」
「無理」
「うう、まあ考えといてくれよ」
「やだ」
短い言葉しか返さない加州の強硬な態度を見て、諦めたように御手杵はしょんぼりと捨て犬の様にしょげ返った。
「強情だな、あ、いたっ!」
そこで寝ていたはずの鯰尾がひょこっと体を起こす。加州はぎょっとして反射的に膝を立ててしまい、鯰尾は机の角に頭をぶつけることになった。悶絶してごろごろ畳の上を転がる彼の姿は、いくらか場を和ませた。
「ほらほら、駄目とか無理とか言わないで、なんとかなりますって!」
頭を押さえ、ふらふらとした足取りで席へと戻ると、今度は御手杵のふところに収まった。痛みが多少眠気を覚ましたのか、あられの中から丁寧にピーナッツを選り分け口に放り込んでは、「なんとかなるんです」と零していた。
「鯰尾はなにかとそれだな」
御手杵は残ったあられの方をぽりぽりと食べながら、鯰尾に合わせて姿勢を変えてやっていた。何とも仲のいい二人だ。酔っているからか、いつもそうなのかはあまり同じ隊に居たことがないから加州は知らない。
「そのうちみんなこうなりますよー。ほれほれ、くすぐり攻撃!」
「ひゃひゃひゃ、あ、やめ、俺そこ弱いんだって! 馬鹿! ははは!」
「馬鹿になりゃいいんですよ、馬鹿に! ほら清光も」
「......はあ」
この雰囲気にはもう耐えられない。同田貫とのことをちくちく突かれるのももうたくさんだし、こんなのではなかなか酔えそうもなかった。「ちょっと抜けてくる」と言って清光はその場を離れた。「強制してるわけじゃないからな!」という御手杵の声が背中にぶつかったが、加州は無視した。
「なんか、マジで馬鹿らしくなってきた。」
酒の肴なんかにされて、酔っ払いには説教される。こんな日、最悪だと清光は大きなため息をついた。なんで第三者からこんな風に言われなきゃならないんだという思いが強く、言うんならいつもみたいに飛び出してきて言ってくれればこちらだってやりようもあるのに、とも考えていた。
今、なぜだか無性に同田貫の顔が見たかった。そうすれば、今胸をじりじりと焼く不快な思いをまたあの時のようにぶつけてやるのに、と思った。
加州が去った後、御手杵はようやく自分が柄にもなく他人の事情に分け入ってしまったことに気付いてはっとした。
「......やっちゃったかな」
「だあって、兜に馬糞投げるなんてこと、教えなきゃ損でしょう。細かいことは気にしない! れーっつえんじょーいせかんどらーいふ!」
御手杵の心配などなんのその。胸に頭を預けて、鯰尾は調子っぱずれに歌い出す。加州は今頃、外で腹を立てていることだろう。なのにこの陽気っぷりだ。
「何の歌だ、それ」
「さあ。今作りました」
「俺、お前のそういうとこ好きだなあ」
「奇遇ですね、俺もなんですよ。俺も、俺のこういうところが好き」
にししと歯を見せる鯰尾は、やけに頼もしかった。
6
加州清光と同田貫正国の前代未聞の大喧嘩。そういうことがあったのももう数日前の話だ。光陰矢のごとし。時ばかりが早く過ぎ去ってゆく。その間というものの、加州は同田貫と一度も顔を合わせることはなかった。
そう、ただの、一度も。
あんな騒ぎがあったわけだから配置換えが行われるのは当然のこととして、任務を終えて本丸に戻ったときでさえ、同田貫が姿を見せることはなかった。ここは戦場かというほどに研ぎ澄まされた直感と作戦で、同田貫は加州を避け続けたのだ。
こてんぱんに打ち負かされて合わせる顔がないのだと面白がっていたのも初めのことで、ここまで徹底して避けられるとどれだけあいつは必死になって避けているんだという風にだんだんとまた腹が立ってきてしまう。不満があればいつもみたいに言い返してくればいい。それなのに、逃げてばかりいる同田貫にかえっていらだちは募った。目の前にいてもいなくても加州の心を落ち着かなくさせるなんて、なんてやつだと加州はいらだちのあまりむしった雑草を地面に叩きつけた。
「機嫌悪いね」
ぱんぱんと手についた土を払う加州はさながら鬼の形相で、同じく畑当番をやっている大和守はそれを一瞥すると、きゅうりを投げてよこした。
「これでもかじって、落ち着きなよ」
「落ち着いてるって」
「ふうん。ま、休憩にしようか」
大和守に促されて、加州は傍の手水鉢で手をゆすぐときゅうりを受け取った。ぱきんと中ごろから折って、苛立ち紛れに口にする。それで気が晴れるくらいの悩み事だったらどんなによかったことか。清光はあっという間に腹に収めてしまうと、もう片方もがむしゃらに食らった。その姿はどこからどう見ても不機嫌そのもので、大和守はやっぱり機嫌悪いんじゃないかと思った。
「いざ逃げられると、落ち着かない?」
そのまま加州がまるまる一本を平らげたあたりで、大和守は加州に尋ねた。「何の話?」と反射的に咬みついた加州は、自信でも気付かないうちにぶつぶつと逃げるだかなんだかと文句を言いながら作業していたことを教えられて沈黙した。
「やっぱり気になるんだ。同田貫のこと」
大和守は知っていた。ここ最近加州の目が何かを探すように動いていることだけでなく、それが何かではなく誰かというところまでも。なんせ、同田貫が分かりやすくふさぎこんでいて、加州がこれまたはっきりとへそを曲げていたものだから。本丸ではほとんど周知のことだ。
「違うし!」
加州はもう子供か、というほどに癇癪を起こしてその名前に反応した。そんな態度は気になってます! と言っているようなものだというのがわからないらしい。そろそろ意地っ張りさんも卒業するべきだと大和守は時折思うのだが、もって生まれた性分は急には変えられないようだった。「なんでみんなそうやって俺と同田貫のことつつきまわすわけ?」とヒステリー気味に膝を叩く加州の肩を大和守は軽く叩いて宥める。
「早く仲直りしてほしいからだよ」
「そういうの、おせっかいっていうと思うんだけど」
「まあ、周りがどうしたって、自然となんとかなる日がくるっていうのは分かってるんだけどね」
大和守はきゅうりをぽりぽりとかじりつつ、穏やかにそう零した。じゃあ触れるなよと加州は思いっきりふてくされた表情を見せ、怒った。
その時は唐突に訪れた。元々同じところに寝泊まりしているわけで、同田貫の逃亡は悪あがきとしか言いようがなく、寧ろここまで逃げ続けられたことが奇跡みたいなものだったのだ。
「なんだよ、元気そうじゃん」
それはうっかり行軍先を間違えた審神者のせいだった。部隊長の加州清光に強制帰還命令が出された遠征からの帰り、二人は廊下の端と端でお互いの姿を目にすることと相成った。
これは同田貫も予想できなかったに違いない。蜻蛉切と親しげに話す姿を捉えた加州は、むっとして不満を零しただけだったが、なんと加州を視認するやいなや、同田貫は血相を変えて、その場から逃げ出したのであった。
「おいっ!」
縁側の端から飛び降りて、植え込みの中に消えていく後姿に向かって加州は怒鳴りつけた。
「なんで逃げるんだよ、おい、待て!」
庭でボール遊びをしていた一期一振と前田藤四郎が、ぱっとこちらを見て、そそくさとその場から退散した。不幸にも向かいからやって来ていた石切丸は目を合わせないようにして、陰陽五行を口ずさみながらその横をすり抜けていった。
「待てってば!」
初めはゆっくりと、だんだんと早足に、最後には全力疾走で加州は同田貫を追いかけた。靴を履き替えるのも忘れて、分け入った植え込みの先には脱兎のごとく走り去る背中しか見えなかった。来るものは拒まず、去る者は追わずでいいじゃないか。嫌な奴ともこれで永遠におさらばってわけだ、と頭のどこか冷静な部分が言っているが、もうなにがどうしてこうなったのか、加州はむきになって、その黒々とした背中を捕まえてなにか一言言ってやらないと気が済まなくなっていた。
何がどうしてこうなった、と同田貫は困惑と焦りとその他もろもろの感情を一つの鍋にぶちこんでぐつぐつと煮込んだというような状態で、ただ足を動かしていた。あいつの顔を見ないようにして過ごしていたのに、万一鉢合わせをしてもどうせ向こうもそう思って近寄っては来まいと思って居たのに、なぜこんな風に追われる羽目になってんだ! 同田貫は心の中で絶叫しながら、逃げた。とりあえず逃げた。理由は単純なことで、加州にここで捕まったら自分の身が危ないと思ったからだった。有体にいえば、加州が怖かった。
一度痛い目を見れば、そこから遠ざかろうとするのは当然のことだ。更に言えば加州があの日同田貫に向かって言ったことは、同田貫の思考回路をぐちゃぐちゃにしてしまったのだから、傷はかなり深かった。一時はもう何もかも放り出してしまいたいという衝動に駆られ、実際その通りに大事な兜をめちゃくちゃにしてしまったこともある。あの時馬屋で御手杵が止めてくれなければ、今頃あれはあまりの臭さに使い物にならなくなっていただろう。あれは今思い返しただけでも恥ずかしい。歌仙には正直に言えなかったことを思い出す。
なんで気に食わない相手を追ってくる? なんの用があって俺を呼ぶ? 過干渉はよくないと歌仙に言われたからそうしたというのに、自分は何か間違っていただろうかと同田貫は考える。その間にも庭を走り抜けてしまい、逃げ場を探して視線を走らせた彼は半分開いていた勝手口を次の目的地に定めた。
一方この時、勝手口の向こう側では燭台切光忠とへし切長谷部が雑談をしながら料理をしている最中であった。
「それから、気がかりでならないんだって。なんていうか、逆に。そういうことってあると思うかい?」
「ああ、ううん、罪悪感というやつなんじゃないか。傷つけたのを後悔している」
そんなことを言いながら、燭台切は芋を剥き、長谷部は人参を刻んでいた。隣の窯ではぐつぐつと湯が煮えており、中で昆布と煮干しが踊っている。肉じゃがと聞いて、そわそわと後ろで後虎退と虎たちが調理場の中を覗いていた。
長谷部はそれに気づくと、燭台切が見ていないかどうかを確認し、既に切り分けていた牛肉の端きれをこっそり懐紙に包んで石の床に置いてやる。わっと虎たちはそれに群がった。後虎退は金色の目をぱちくりさせると、口パクで「ありがとうございます」と言ってふくふくとした頬を赤らめた。みんなの食事だから本当はこんな抜け駆けはいけないのだが、腹をすかしてきゅうきゅう鳴く小虎たちがあまりに愛らしく、可哀想だったのでつい長谷部はそうしてしまった。
「でも、傷つけようとしたんだっていうのに、難儀なことだよね」
燭台切は実際のところ長谷部が懐紙を取り出した時点で気付いてはいたのだが、それを見て見ぬふりをして、話を続けた。はぐはぐと肉を食む小虎を見て目元を緩ませる長谷部の横顔は興味を引いたが、何かを言って気を悪くされたら困ると思ったからだ。
「じゃあ思いのほか深かったんだろう。自虐ってわけではないが、俺の......俺たちの前の主だって、何も棚や燭台ごと斬ろうなんて思っちゃいなかった。意外だったから、こんな名前になったんだろう」
「いっそ記念にしちゃおうっていうその心意気に驚きを禁じ得なかったね」
「そういう軽々しいところは好かない」
「長谷部くんってば、すぐそうやって前の主の話をする。そういうとこ、意外と女々しいよねえ」
「......芋が剥けたなら、早く出してくれ」
「待って、芽がまだ残ってて」
長谷部も何事もなかったかのように調理台の前に戻って、昔の話を持ち出した。先ほどと違うのは、おあまりをせびる食いしん坊の一匹が長谷部の足にすり寄っては縞模様の尾を絡ませてきているという点だった。「駄目だよ、おいで。もう食べたでしょ。」とひそひそ声で後虎退が虎を呼ぶ。ぐるると嫌々というふうに虎が鳴く。状況証拠はどんどん出てくるのに、知らん顔をして玉ねぎを切り始める長谷部はいっそ滑稽だった。燭台切は笑い出しそうになりながら、芋の芽を取った。
「あっ、駄目!」
「そんなところ潜り込んじゃ、」と後虎退はもう声を抑えるのも忘れている。ちらと盗み見れば、小虎が長谷部のズボンのすそに顔を突っ込んでいるところだった。あ、駄目。笑う。仏頂面でひたすら刻んでいる長谷部の表情とのギャップに、燭台切はもう耐えられなくなってしまった。
「悪いっ! 邪魔するぜ!」
ばんっ、とそこで救世主が飛び込んできた。半ば転がり込むようにして、調理場に躍り出たのは同田貫正国。まさに今、その話をしていたところだったのだ。燭台切も、長谷部も、後虎退もぽかんとして同田貫を見た。
「加州は来てねえな!」
「き、来てないよ」
吠えるようにそれだけ聞くと、同田貫は調理場を通り抜け、室内に上がり込んだ。彼は急いでいるなりに、履物は脱げという長谷部の注意にきちんと従った。「いいか、隠しといてくれ」と鬼のような形相でそれを押し付けられた後虎退は泣きそうな顔をして頷いた。
「なにがあったんだい!」
「なにも! 加州には言うな!」
それだけ言って同田貫は消えていった。まるで嵐だ、とその場にいた全員がそう思い、また、何もないわけがあるか、とも思った。
「......噂をすればなんとやら、というやつか」
長谷部は顎に手を当てて、先ほどまでの話を思い返していた。「また喧嘩か?」と付け加える。「いや案外、仲直りかもよ。」と燭台切は意見した。
「喧嘩かあ。僕たちも、一回くらいああいうのしてみる?」
「しない」
「まあそれもそうかな。喧嘩なんて、負けたらかっこつかないし」
「勝っても恰好悪いだろう」
どこに行ったんだ、と追いかけたはいいものの同田貫をすっかり見失った加州は、一度庭から室内に戻り、片っ端から部屋を覗いて回っていた。俺からそう簡単に逃げられると思うなよ、と加州はぎりりと歯噛みする。うちの打刀の中でも索敵成功率はかなり高い方なのだ。もう会ってどうするのか、ということも忘れて加州は刀としての威信にかけて探すのに夢中になっていた。
「ねえっ、同田貫見てない?」
五つ目に開けた部屋の中に向かって、加州はまずそう聞いた。
「おや、加州殿!」
「俺はお絵かきちゅうでーす。今いいとこなんで話しかけないでくださーい」
室内にいたのは鳴狐と蛍丸だった。卓袱台の上にクレヨンやら画用紙やらを広げて、絵を描いて遊んでいるようだった。きちんと反応を示したのはお供の狐だ。鳴狐はもともとあまりしゃべらないから論外だし、邪魔されるのが嫌なのか蛍丸は顔も上げずまともに取り合ってくれそうもなかった。
「同田貫探してるんだけど」
「いえ、ここにはいませんが......。あっ、なりませんぞ! それは鳴狐の色鉛筆でございます!」
「いいじゃんべつにー」
「見かけなかった?」
「ううん、私は見てませんね......。あっ、そうやって鳴狐が使おうとする色を取るのはなぜ! なぜです!」
「俺がたまたま使いたい色だったの」
念のため、今までの部屋でそうしてきたように、加州は部屋に視線を走らせた。鳴狐が使おうとした色鉛筆を、蛍丸が取ってゆく。蛍丸の口元は悪戯坊主のようにむずむずと弧を描いており、からかうのを楽しんでいるように見える。別のに指を伸ばすと、またひょいと先回りして取られる。どうにも平和すぎる風景だった。
押し入れに開いた形跡なし。置物の裏にもいそうにない。散らばった画用紙が踏み荒らされた風でもない。そうと分かると、加州は足早にその場を後にした。
「分かりました、分かりましたぞー! そうやって嫌がらせをして鳴狐に喋らせようということですな、いいですか鳴狐、喋ってはなり、」
「青もーらいっ」
「あっ、青......」
「鳴狐ーーー!」
お供の狐の絶叫を背に、清光はまた廊下を走り出した。一刻も早く同田貫を見つけ出して、自分もああいう普通の生活に戻るのだと固く誓うと、地を蹴る力が更に増した。
7
同田貫はあっちへ逃げ、こっちへ逃げ、加州はそれを探し回って本丸中を駆け回った。ここで考慮すべきは加州の方が機動力では優れているという点だ。
端的に言えば、加州はまわりまわって元の本丸の裏手で同田貫の背中をひっつかむことに成功したのだった。
「離せっ!」
「やだ! 離したら逃げるじゃん!」
「は、な、せ!」
同田貫は往生際悪くじたばたと暴れて、すぐに加州から距離をとろうとした。加州も足を踏ん張って離すまいとしたが、じきに手を離すことになった。細身の加州と体格のいい同田貫ではそううまくはいかない。力勝負では同田貫に分があるのは仕方のないことだった。加州の手を振り払った同田貫は振り返ると、力いっぱい加州のえんじ色の襟巻を掴んで引っ張った。息が詰まって顔をしかめる加州に向けて額を寄せて威嚇すると、すぐに突き放す。
「なんで追いかけて来んだよ!」
「に......逃げるからだろっ......」
逃げるから。罵る同田貫に、加州は咳込みながらそうとしか返せなかった。「逃げたら追うでしょ普通!」とどこ基準か分からないその返答は同田貫を脱力させるには十分だったらしい。「なんだよそれ」と毒気を抜かれたように同田貫はぽつりと言った。
「お前が姿を見せないせいで、気になって仕方がないんだってば。しかも逃げるし!」
気になってないと大和守には言ってあったが、本人の前ではつい本音が出た。追いかけまわして、疲れてしまっていたのだ。ここで逃したくない。なんせもう加州には同田貫に言ってやりたいことが山の様にある。「逃げるなよ。」と念押しする加州の顔があまりに真に迫っていたので、同田貫も気圧されてその場に留まった。
「俺だってこんなことしたかねえんだが、しゃーねーだろ。毎日毎日、あんたの面が頭に浮かぶんだ。しかも、役に立たなくなったらどうすんのって聞いてくる。そんなの続いてみろ。会いたくもなくなるだろ」
「そんなことで避けてたわけ?」
「てめえ、他人事だと思って!」
「だって他人事だろ。なんでこれに限って、そんなうじうじやってんのさ......。いつもみたいに言い返してくればいいのに、なんでさ、今回ばっかり」
いままでみたいに流してくれればよかったのに、なんでこれに限ってここまでするんだと加州は不満を口にした。これまで、同田貫は単純な行動や思考しかできない馬鹿正直なやつだと思っていた。こういうじめっとした役回りはむしろ加州のものだ。まさかそんなに根に持たれるとは。避けられているということを知った時には驚いたものだ。
「俺の方が悪者みたいじゃん!」
「実際悪いのはそっちだろ!」
「俺なんにも悪いこと言ってないもん。ほんとのこと言っただけだし」
「まだ言うか!」
加州は基本的に身勝手だ。だから大和守に仲裁されたときも、鶴丸につつかれたときも、鯰尾と御手杵に諭されたときも自分は悪くないの一点張りでここまで来た。同田貫との口論に関してはそうしておけば時が解決してくれることがほとんどだったからだ。
けれど今回ばかりはそうもいかなかった。
「だってそんなんされたらさ、思うじゃん。......悪いことしたかなってさ」
これまで、加州が同田貫に対して分かりやすく譲歩することはなかった。少なくとも同田貫に気を遣うような態度は一度だって取らなかった。だからこの短い言葉が、刀装抜きで受ける投石よりも大きな衝撃を同田貫にもたらしたのも無理のないことだった。
「なっ、何で泣くんだよ」
突然、ぼろりと同田貫の鋭い目から涙がこぼれた。一瞬、加州の時が止まる。急展開について行けず固まる加州のことはお構いなしに、同田貫はぶつぶつと文句を言った。
「またなんか言われんのかと思ってたのに、なんなんだ。俺、会うの嫌だったんだよ。お前もその方がいいかと思って......。ほら、俺の顔なんか見たくもないって感じだったろ。だから無い頭使って、会わないようにって、思ったのに。なのに追ってくるし、い、意味わかんねえんだよ!」
なんでこいつは泣いてるんだ。本音をぶつけ、ひどく罵ったあの日は泣かなかったくせに、なんで今更になって。意味が分からないのはこっちのほうだと加州は混乱した。「俺が悪いの」と圧されるままに言うと、「ああ、お前が悪い!」と涙声で喚かれて更に困惑は加速する。
「やっと認めやがったな、この、ナルシスト! どうせ俺は、見た目が悪くて、替えの利く、消耗品だ!」
「同田貫? 何言って」
「そうだ、お前が羨ましいと思ったことがある! 俺は折られたらおしまいの、消耗品だからな。どう頑張ったって、俺じゃそんなふうにはできねえよ!」
「だからなんだってんだ」と同田貫は泣いた。ぐすぐすと鼻をならして、大粒の涙をぼろぼろこぼして、みっともなく泣きに泣いた。あの日の加州の言葉は本当に同田貫の急所をぐっさりと貫いていたのだ。黙っていたのは怒っていたのではなくて、言葉が見つからなかっただけなのかもしれない、と加州は気付いたが、いつもなら喜ぶはずのこともこんな状況ではあまりうれしくはなかった。
加州もこれには面喰って、おろおろとしの場をうろついたあと、とにかくどうにかしようと同田貫に寄ったが拒まれた。
「来んじゃねえよ......」
「だ、だって泣いてるじゃん」
男泣きというよりは駄々っ子のそれには加州は、「なんかごめん」と言うしかなかった。しかしそれも今の同田貫には逆効果で、またぶわっと涙をあふれさせた。普段のむっつりとした表情からは予想もつかない崩れ顔だった。
「なんで、謝ってくるんだよ......!」
「あ、謝っちゃ駄目なのかよ?」
「だってぜってー悪いって思ってないだろ、お前! おれっ、そんなんで言われるって思ってなかったから、なんか、びっくりして、」
うう、と呻くとやっと同田貫は涙を袖でぬぐった。乱暴に拭われたせいで、目元が赤くなってしまったがそんなことは今の二人にはどうでもいいことだった。
「ご、ごめん」
「だから謝んなよ......。俺だって、まだ謝ってないのに......謝られたら......また泣くだろお......!」
「じゃあごめんじゃない! ごめんじゃないから泣くなって......」
もう距離をとるほど余裕なく、ぐずぐずになった同田貫の背中を加州はさすってやった。今更ながらここが人気のないところでよかった、と加州は思った。普通ならドン引きものの光景だろうから、これを見るのが自分だけでなかったら後でどんな風に酒の肴に料理されてしまうかわからない。
同田貫はひとしきり泣いた後、背中をなでる加州の手からのがれるように一歩を踏み出した。
「悪かったな」
それで、こうして同田貫の取るに足らない逃亡劇は、喧嘩両成敗という形であっけなく幕を閉じた。
8
厚樫山の山路を、女のような服装をした美丈夫が駆け下りてくる。手には身長を優に超える大太刀を携え、必死の形相で先に打ち合いを始めていた仲間に向かって声を張り上げた。
「まだ陣の端と端に残ってるよ! 大太刀と槍、あと短刀一振り! 向こうの刀装固くて、多分あたしじゃまだ短刀くらいしか片付け切れない!」
「俺、大太刀と槍はちょっと遠い! じーさんか同田貫ならいけるかも!」
鎌倉改変阿津賀志山方面奥州防衛隊と呼ばれるその部隊。六連戦の果てに待ち受けていたのはやはり今までやり合ってきたのと同じように「甲」の刀剣だった。次郎太刀がそれと相見えるのはこの戦場が初めてだ。つい最近部隊に加入したばかりで他の刀剣よりも実戦経験が浅いと自覚している彼は、仲間に戦況を知らせる役目を買って出ていた。
一番に反応したのは獅子王。相手にしていた脇差を蹴散らして、早馬を走らせる。軽騎兵は飛ぶようにして、三日月宗近の元へと向かった。
「おお、今しがたその槍を倒したところだが」
伝令を受けた三日月は戦場に立っているとは思えない落ち着きで、足元に倒れ伏した対敵を指し示す。そのおおらか過ぎとも言える態度を見かねて、「たぶんもう一体の方だと思うんだけど、」と歌仙が口を挟んだ。
「ああ、違うのか? それなら、おそらく加州がいる方角だと思うが」
「じゃあ僕は足の遅い大太刀から行こうかな、先手が打てる!」
同田貫、君はどうする? そう言おうとした口をぽかんと開けたまま、歌仙は固まった。さっきまで一緒にいたはずの同田貫が忽然と姿を消していたのだった。
加州は槍と退治していた。ぎらぎらと真っ赤に光る歴史修正主義者の手先を睨み付け、柄をぐっと握りしめる。槍の攻撃は、一度でも当たれば刀装を貫いて加州に必ず傷をつけるだろうということはわかっていた。だから、加州は歯を食い縛って、頭を働かせ、相手の様子を伺いながら次の一手を模索する。
傷つかないことと、武器として役立つことは二律背反だ。どちらもというわけにはいかないこともある。それは分かっているが、最小限に被害を抑えたかった。前みたいに中傷なんてことは嫌だ。けれど、主の刀としての責任は果たす。ふう、と深く息を吐いて、禍々しい空気を纏った槍に向かって加州は駆け出した。
狙うは脇の下。打刀では硬い甲冑を貫くのは難しい。だから、脇の下から切り上げ、本体を一撃で葬ろうというのであった。
「おらっ、これがっ、本気だ!」
刀を盾代わりにし、突いてくる剣先を払って、一気に間合いを詰める。槍と切り結ぶには一か八かの特攻しかない。いつもなら彼を守ってくれる刀装はここでは役に立たず、完全に加州の技量に全てが委ねられていた。
しかし相手の槍も上手かった。いなされた切っ先を素早く戻し、相討ち覚悟で加州に向けて連続で突き上げようとしてきたのだった。
まずい、と加州は頭の片隅で思った。しかしもう体は飛び出しており、刀は槍の懐に掛かっていた。ああ、突かれる、そう覚悟した時だった。
「叩っ斬ってやる!」
突然、背後から浴びせられた一太刀に、獣じみた断末魔の叫び声をあげて敵兵は倒れた。遠くで決着を告げる太鼓の音がする。槍の切っ先が自分の足先を引っ掻くようにして地面に転がるのを、加州は驚きのあまり声も出せずに見送った。
「悪いな、こりゃあ、俺が誉とっちまうわ」
ぐっと敵の上に乗り上げ、とどめにと懐の小刀で首を切った同田貫はニッと笑って加州に軽口を叩いた。同田貫がそんな態度だからか、助けてもらったことよりもそりの合わない相手がそうして気分良さそうにしているということの方を重大にとらえた加州は、渋柿を食らったような表情を作った。
「俺がやれたってば」
「助けてやったのにそりゃねーだろ。せいぜい後ろで守られとけって」
同田貫はやれやれと肩をすくめて、あきれ顔を作った。相変わらずむかつく顔だ。「俺だって実戦で使われたんだぜ」と加州は異議を唱える。
「ほら、可愛くっても役に立たなきゃお話になんないでしょ」
「お前......。傷ついたらぴーぴー泣くのに、よくそんなこと言えんな」
へん、と小馬鹿にするように笑う同田貫の鼻を明かしてやりたくて、「泣いたのそっちじゃん」ともう何日も前のことになるあの日のことを持ち出せば、「るっせえ忘れろ!」と同田貫は真っ赤になって言った。あれから彼は大変だったのだ。誰も見てはいなかったとはいうものの、声は近くの部屋に筒抜けであったし、泣き腫らした目のせいでなにがあったかはその日のうちに本丸じゅうを駆け抜けるようにして伝わった。二人、とくに同田貫は酒の肴に小突きまわされては恥ずかしさに頭を沸騰させたものだった。
「やだね」
「可愛くねーな」
「別に、主意外に可愛いって思って欲しくないから」
二人は小競り合いを繰り返しながら歩いている。以前はてんでバラバラに歩いていた本陣までの道のりだ。相変わらず、同田貫はがさつで自身を飾り立てる価値に対して懐疑的だし、加州はそんな同田貫の理解のなさを軽蔑していないとはいえない。けれど、もう二人は決定的に相手の弱点を突くような一言を言わなかった。
場外乱闘:ナスの煮びたし
月がとてもきれいだから、という理由で、その夜、たまたま廊下を通りかかった同田貫正国は、そこに腰かけていた鶯丸に晩酌を持ちかけられた。そのころの同田貫といったら、加州清光に泣かされた(とはいえ同田貫が勝手に感極まってしまっただけなのだが)ことで方々からちょっかいをかけられていたので、それがどうにも恥ずかしくて比較的仲のいい御手杵や獅子王なんかとさえつるむのを避け気味だった。特に御手杵には口論を直接見られているので、なんとなく顔を合わせるのがいやだったのもある。
「誰でもいいんだ。誰かと飲めれば」
「誰でもいいなら俺じゃなくったっていーだろうが」
「つれないことを言うんじゃない。袖振り合うも多少の縁って言うだろう。通りかかったのが運のつきさ。ほら、座ってくれよ。少しだけでいいから」
「......ったくよお。ちょっとだけだからな」
なので、もちろん鶯丸の提案にも乗る気は全くなかったのだが、そこはこの得体の知れない刀のことである。のらくらとこちらの話を聞かない態度で、ほとんどなあなあの状態で仕方なく、同田貫は鶯丸の差し出す猪口を受け取った。鶯丸は嬉しそうに口元をほころばせて、日本酒の瓶を傾け同田貫の猪口に酒を注いだ。
「お前も、茶以外のモン飲むんだな」
「はは、そりゃあ、まあ。こんな月のきれいな日には、茶より酒の方が風情があるだろう」
「あんた、歌仙みたいなこと言うな。ま、俺には風情なんてもんはわかんねえけどよ」
同田貫はぽっかりと夜空にうかんだ満月を見上げながら、ぐびりと猪口の酒を煽る。それは思いのほかすっきりとした甘い味わいで、飲みやすかった。
「飲みやすいな、これ」
「そうだろう。主に頂いたんだ。生憎、俺は茶以外のことには造形が深くないからな。どんな酒なのかはよく分からないんだが」
「気に入った。うめえぜ、これ」
「はは、気に入ってくれたならなによりだ」
鶯丸は、けらけらと笑って、猪口をちびりちびりと傾けた。どうにも静かな夜で、縁側に出ているのは鶯丸と同田貫くらいのものだった。他の奴らはどうしているのだろうか。どっかの部屋で別に酒盛りでもしているのかもしれなかった。へし切長谷部辺りなら、こんな時間まで仕事をしているのだろうが。いつも書類かなにかとにらめっこをしている堅物そうな表情が目に浮かぶ。じゃあ加州は、と考えたところで、その思考を同田貫は振り払った。考えるべきではない、そう本能が感じ取っていた。
あの日の出来事は、同田貫の一生誰にも口外したくない恥ずかしい記憶としてまだ胸の奥に残っている。なんたって、自分が聞き分けのない子供みたいに大泣きしてしまっただなんて、そんな無様で恰好のつかないこと、燭台切光忠ではないが、気にしないという方が無理なものだ。
「なんだ、ぼうっとして。加州のことでも考えているのかい」
「ばっ、ちげーよ。......違わねえけど」
「君は素直だな。君のいいところだ。まあ、もう喧嘩なんてしてないじゃないか。あんまり気にするものでもないさ」
「まあ、そうだけどよ」
あの日以来、同田貫も加州もお互いを傷つけるようなことは言わなくなった。小競り合いはままあれど、それもじゃれあいのようなもので、お互い深く傷つくようなこともなかった。それは、同田貫が加州の生き方を真の意味で受け入れ、加州が同田貫の在り方をより理解したということだったように思う。
「でも、なんか恥ずかしいんだよ。胸がざわつくっつーか、もやもやするっつーか」
「ふうん」
御手杵や、鯰尾などの例の醜態にかかわっていた面々とは全く違う立場の鶯丸に対しては、どうしてか同田貫も饒舌になった。それはきっと同田貫自身も、話していて気まずくない話し相手が欲しかったのだろう。
鶯丸はなにか言いたげな含みを持った視線を寄越すと、「気になるんだな、加州のことが」と言った。ぼっ、と同田貫は顔を耳まで真っ赤にして、大声で抗議した。
「違えよ!」
「煩いぞ。ここが誰の部屋か忘れたか?」
同田貫が声を上げると同時に、スパン、と障子が開いて、怒気を孕んだ冷たい声が二人の背中に突き刺さった。振り返ってみれば、書類を持った長谷部が仁王立ちしていた。なんたって鶯丸はよりによってこんなところを飲む場所に選んだのだろうか。鶯丸は「悪い、悪い」と全く悪びれる風もなく、長谷部に謝った。長谷部は額に手をやり、はあ、と深いため息を吐く。
「ここからの眺めが、一番いいんだ」
「別に、他人の部屋の前で晩酌をすることは咎めはしないがな。仕事の邪魔になるようであれば、即刻退去してもらうぞ」
「そんな仕事仕事で疲れないか? どうだ、長谷部も俺たちと一杯。今なら同田貫のお悩みも聞けるぞ」
「聞けねえよ」
「興味ないな。あの日、厨房に飛び込んできたのは驚いたが......。それだけだ。そもそも込み入った事情を聴こうとするなんて、野暮天のすることだ」
「俺は長谷部のそういういちいち詮索しねえうざったくないとこ好きだぜ」
「どうも。俺は仕事に戻るから、くれぐれも騒々しくするんじゃないぞ」
長谷部はそれだけ言うと、部屋にまた戻って行った。また縁側には、鶯丸と同田貫の二人きりになる。鶯丸はまた猪口に日本酒を注ぐと、ちびりちびりとやりはじめた。しんしんと夜は更けていく。
「野暮天とは、散々な言われようだな。別に、俺は首を突っ込みたいというわけではないんだが」
「俺の前であいつの話題を出すってことはそういうこった。分かったなら、ほっといてくれよ」
「そうは言ってもなあ。みんな娯楽に飢えているんだ。話のタネがあったら、飛びつきたくもなるさ。それに、悩み事っていうのは一人で解決するのは難しいと相場が決まっているだろう」
こいつ、もしかして最初からそのつもりで。同田貫はちらりと鶯丸の表情を盗み見たが、特にそこからは何も読み取れなかった。全く、底の知れない刀だ。同田貫はこの太刀のことを末恐ろしく思う。
「みんな、君たちのことを心配しているのさ。御手杵も、獅子王も、鯰尾も」
「心配しなくても、もう喧嘩なんかしたりしねーよ」
「そうか。それはいいな。仲がいいことはいいことだ。俺と大包平みたいにな」
「またいもしねえ奴の話をする......」
同田貫は呆れて、空になった猪口を床にコン、とわざとらしく音を立てて置いた。
・・
次の日、同田貫は畑当番に命じられた。当番札の下がった壁を見ていると、なんと相方は大和守安定だった。加州と仲の良い刀だ。うげ、と同田貫は口元を歪めるも、加州でないだけマシか、と思い直して、作業着に着替えるために部屋に戻った。
今日はナスがよく実っていて、同田貫と大和守はそれらをもぐ作業に追われた。
「今晩はナス天かな」
大和守はカゴいっぱいになったナスを見下ろして、そんなことを言った。
「俺は煮びたしが好きだ」
同田貫は、方々に生えた雑草をぶちぶちと抜きながら答える。
「へえ。そうなんだ。そういえば、清光もなんだよね。煮びたし好きなの」
「あいつのことはどうだっていいだろ」
「いいじゃない。折角仲良くするきっかけをあげてるんだからさ」
「だれがいつ、あいつと仲良くしたいなんて言ったんだよ」
むすりとした表情を作り、ギラギラとした三白眼で睨みつけるように見上げてくる同田貫を見ても、大和守は特に気にする風もなかった。先のことで、大和守は案外この打刀のこころが柔らかいということをよく知っていたからだ。
「付かず離れず、って距離感が一番いーんだよ。俺も、あいつも。パーソナルスペースっていうの? 適切な距離感、っていうらしいけどよ。そういうのって結構大事だって気づいたんだ」
「ふうん、そっか。そうかあ」
大和守は、何がおかしいのやら、にやにやと笑っている。同田貫はそれが面白くなくて、乱暴に雑草を抜いた。あの日から、周りの態度が明らかに変わっている。なんというか、わざと加州と同田貫を引き合わせたがっているというか。そんなの、同田貫にとっては、余計なお世話でしかない。
「歌仙に、頼もうかな。今日は煮びたしにしてほしいって」
「ナス天じゃねえのかよ」
「清光、今日は出陣だしさ。帰ってきたときに好物があるって、なんとなく嬉しいだろ」
「......ま、それもそうか」
「リクエストは同田貫がしといてよ」
「はあ? なんで俺がやんなきゃなんねえんだ」
「じれったいんだよ。見ててさ。こういうとこで気をまわしとかないとって思っちゃうんだよ」
何がだ、と同田貫は思ったが、特にそれを深く追求しなかった。それを追求したら、ろくなことにならないような気がしたからだ。同田貫は黙って、雑草をむしるのを続けた。
・・
「今日のおかずはナスの煮びたしだよ」
夕方、出陣成果の報告を終えた加州がいい匂いにつられて厨房を覗くと、鍋を見ていた歌仙兼定が振り向いてうれしいことを言った。
「やった、好きなんだよね。煮びたし」
口元が自然とほころぶ。ナスの煮びたしは加州の好物だ。出陣でへとへとになって帰ってきたところで、好きなものが待っているというのはどうにも心が浮つくものだ。歌仙は、加州が嬉しそうにしているのを見て「好物かい?」と聞いた。
「うん。超好き」
「そうか。同田貫のリクエストなんだけどね。彼も好きらしいよ」
「げえっ、なんでそれ言うのさ」
そういうのマジ勘弁、と加州が途端に嫌そうな顔をするのを歌仙は笑って見ていた。加州はあの盛大な喧嘩をして以降、周りにやれ同田貫がああだ、同田貫がこうだ、と言われることが増えて辟易していたのだ。もう喧嘩なんかしないし、するつもりもないんだから放っておいてほしいのに、周りはいちいち同田貫を引き合いに出してちょっかいをかけてくる。しかも嫌ににやつきながら。それがどうしてなのかさっぱり分からなかったが、少なくとも後ろめたい思いをした加州にとってはどうにもわずらわしかった。
「君が気にしすぎなだけだよ。好きなものが被ったくらいで、大げさすぎる」
「まあ、確かにそうなんだけど」
歌仙の言うことは確かに正論で、加州が同田貫を意識しすぎているのも悪いのだろう。しかし、あんなことがあったからには気にするなというのがおかしな話だ。一度とんでもない近距離で本音をぶつけ合ってしまったがために、距離感をどうしていいか分からない。同田貫が歩いていれば目が行くし、姿を見なければ見ないでどうしているかが気になってしまう。けれど、元々オトモダチではないのだから、声をかけるのはなんだかためらわれるし、そもそもそういうのは性分じゃない。だけど、周りにお膳立てされるのもそれはそれで虫の居所が悪くなる。それが加州の言い分だった。
「でもさあ、なんでみんな同田貫と俺のこといちいち引き合いにだすわけ? そういうのマジでうざいんだけど」
「僕にそんなことを言われてもね」
鍋に視線を戻し、歌仙は困ったように肩をすくめた。歌仙は特に引き合いに出したつもりもないのだから、言いがかりにも程がった。こんな小さなことにいちいち目くじらを立てているようでは、そりゃあどんなことだって引き合いにだされているように感じてしまうだろうと思われた。
「みんな、ほっといてくれればいいのに。自分でどうにかするし」
一つ結びにした髪をくるくると弄びながら、加州はぶつくさ文句を言った。話したければ自分で話しかける。きっかけづくりなんていらないのだ、実際。
「おせっかいっていうんだぜ、そういうの」
「みんな暇なんだ。世話も焼きたくなるさ」
「それが大きなお世話なんだって」
果たしてそれは本当におせっかいだったろうか。それが分かるのはもっと先のことになる。
(終)
初出:2016/8/21「ノーサイド」