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捨て置かれたとある青春の1ページ

(希望時代 苗木×石丸)

 人間の身体というのは、二、三時間連続して活動するだけの糖分しか貯めておけないらしい。
それから先は、脂肪やら筋肉やら、つまり身を削ってエネルギーを供給し出すという。
そういう話をどこかで聞いた。

1.迷子の腕章
 昨日特に早寝をしたわけでもないのになんとなく目が覚めてしまったので、それならと宿舎の食堂へ顔を出すことにした。一般的にも「早起き」と言える時刻のせいか、廊下には誰の姿も見えない。誰の声も聞こえない。僕だけなのがなんだか新鮮だ。こんなことは滅多にない。
 まだ朝食会には随分と時間がある。寝坊して石丸くんの呼び出しにあうのが日常の僕には、こんなに余裕をもって起きたのは本当に久しぶりだった。入寮の翌日でさえも、僕は見事に寝坊をしていたわけだし。余裕があるなら部屋でだらだら時間を潰してもよかったけど、出てきてしまったのはまあなんとなくだ。本当は、舞園さんはいつも早起きして発声練習を目覚ましにやっているって聞いたせいというのもあるけど。クラスのちょっと気になる女の子と話せるチャンスは誰だって欲しい。僕だって欲しい。早起きは三文の得って言うわけだから、こんなちっぽけな下心くらい許されてもいいだろう。
 舞園さんいないかな、と思って顔を出したけれど、残念。舞園さんどころか誰もいなかった。早すぎたみたいだ。広々とした食堂はがらんとしていてなんとも寂しい。これくらいの時間にはもう起きてるって聞いたのに、運が悪い。僕って本当に超高校級の幸運なのだろうか。元々あんまり自信なんてないけどさ。
「おお、苗木くんではないか!」
 どうしよう。帰ろうかな。なんて入り口付近で肩を落としていると、後ろから大きな声がぶつかってきた。びっくりして反射的に振りかえる。こんな大声を出せるのは彼しかいない。案の定、遠くでびしりと敬礼を決める同級生がいた。やっぱり、石丸くんだ。石丸くんは朝から元気一杯に大声をあげ、「廊下は走らない」を順守して早歩きでこっちに来る。そんな遠くから呼ばなくてもいいのに。石丸くんはとことん変わっている。そう思うのは僕だけではないはずだ。
「おはよう、石丸くん」
「おはよう! 今日は早起きなのだな。感心だぞ」
「なんだか早く目が覚めちゃって......。誰かいないかなって来てみたんだけど」
「そうか、そうか。この時間はいつも誰もいないからな」
「そうなんだ」
 近くに来たというのに、あまり声のトーンが落ちない。石丸くんが声を張り上げていたのは、別に距離の問題じゃなかったみたいだ。無意識みたいだけど、早朝一発目から正直これはきつい。テンションについていけず、ついつい苦笑いだ。こういうとき、彼が相手の感情に鈍くて助かる。朝から勘弁して、とはいつも思うことだ。特に今日は、一際頭に響く気がする。でも僕が早起きしたのを素直に嬉しそうにしているのを見ると、あまり邪険にもできない。この暑苦しくて世間ずれしている友人のことを少し付き合いにくいとは思っても、なんだか放っておけないのだ。
「でも、心配することはないぞ苗木くん。じきに舞園くんが水を飲みに来る頃だろうし、霧切くんがやってくる時刻も近い。ひょっとしたら徹夜帰りの兄弟が戻るかもしれないから、そのときは注意せねばならない。昨日どうも夜に姿を見ないと思っていたら、市街地に出掛けたらしいのだ。けしからん。そのあと恐らくランニング帰りの大神くんと朝比奈くんがそろって」
「だ、大丈夫だよ。説明してくれなくて」
 ぺらぺらとこっちを置いてきぼりにして話し出すのを慌てて止める。委員会の業務連絡や情報開示の場じゃあるまいし、長々話されてもこっちが困ってしまう。どうして止められるのか分からない、というきょとんとした顔を見ると、日常会話が下手なんだなとつくづく思わされる。もっと会話って、軽いものなんだけどな。
「む、そうか。君はいつも遅刻するからな。知らないだろうと思ったのだが」
「いいよ、いいよ。どうせ分かるからさ。待って、れば......」
「苗木くん?」
「いや......」
 そこでなんとなく違和感を感じて、もう一度彼をよく見た。足元から、頭まで。スラックスもブレザーも、おろしたての様にきっちりしている。シワひとつない。確か部屋にアイロンがあったから、毎日シワを伸ばしているのだろう。全体的にはそんなに変わったようには見えなかった。いつもの制服姿だ。
 でも、足りてない。圧倒的に何かが足りてない。では、何が? ああそうか。そうだ。
「腕章、どうしたの?」
 腕章がない。いつもどんなときも身に付けているはずの、超高校級の風紀委員を象徴する、赤の腕章がなかった。なにもついていない左腕が、なんだか寂しい。
 言われて初めて気がついたらしい。言われるままに左腕に目をやった石丸くんは、物凄い速さでいつも腕章がある位置を掴んだ。
「な、な、な」
 しまった、というアテレコができそうな愕然とした顔をして、はくはくと口をおののかせるのが陸揚げされたばかりの魚みたいだった。実際本当に、驚きで息が止まって酸欠状態なのかもしれない。それからカッと一気に顔が耳まで真っ赤になった。ぶるぶると腕を握った右手が震えている。
 あ、駄目だこれは。
「なんということだろう!! 僕は、僕が、腕章をつけ忘れてしまうだなんて! 風紀委員長たる僕がこんなミスをしてしまうだなんて、こっ、心の弛みだ! 気の緩みだ! 意識が、努力が足りない証拠だ! ......風紀委員、失格だ......!」
 叫ぶと同時にぶわ、と涙が吹き出した。やってしまった、顔面が大洪水だ。一瞬前に予想した通りに大号泣を始める石丸くん。彼の涙腺が大変緩いというのは、誰もが知っていることだ。喜怒哀楽のほとんどで彼は涙を流す。まるで、それしか知らないみたいに。
 石丸くんは泣いている。何かに許しを乞うようにーーそれが何かは僕には分からないけれど恐らくは彼の誇りとか、信念とかそういうものに対してだろうーー頭を垂れて、腕を強く強く握りしめて。服がそこだけ破れてしまいそうだった。
「だ、大丈夫だから。まだみんな来てないし、学校も始まる前だし。セーフだよ」
「しかし、僕は自分が情けないのだ。自律ができていなかった、君に気づかせてしまったというのが、どうにも情けない......!」
 ぐわ、と突如として沸騰した自責の念は、石丸くんの中をぐるぐると巡って荒らし回っているらしかった。自律が、自己管理が、とうわごとの様に呟く彼をどう励ましていいのやら、困ってしまう。でも、放り出すほど僕も薄情じゃない。
「落ち着いて、ほら、涙拭いて」
 なんとかしてあげたくて、たまたまポケットに入っていたティッシュを渡すと、石丸くんは何故かズビーーッと鼻をかんだ。涙は拭くどころか次々流れ落ちて頬を濡らし、さらには点々と足元に水滴の跡をいくつもつくった。最初のような激しさは失ったけれど、ぼたぼたと落ちる滴は依然として身体中の水分が涙になって出ていきかねない勢いだった。
「とりあえず、今から取りに戻っても十分間に合うから」
「う......」
「ほ、ほら! 失敗は成功のもとって言うし! 弘法も筆誤るし! ここまできたら五十歩百歩っていうか、覆水盆にかえらずっていうか......。ああ、もう、僕難しい言葉あんまり知らないんだけど!」
 とにかく立ち直ってもらいたくて、そうしないと居心地が悪くて。でも何を言えば泣き止むのか僕にはわからない。それでも、石丸くんに分かりやすそうな言葉で必死に励ます。ひとまず知ってる諺を並べてみるけどこの程度が限界だった。
 ......なんだろうこの気持ち。夜泣きする子供をあやすのってこんな気持ちなんだろうか。今は朝だし石丸くんは同級生だけど。
「......はは、そうだな。泣いていても仕方がない」
 あ、良かった。ツボだった。顔をびしょびしょにしながらも笑った石丸くんにほっとする。
「いやはや、すまない。朝から見苦しいところを見せてしまったな。僕としたことが。今すぐつけに戻るとしよう」
 ごしごしと袖で涙を拭うと、僕の返事も待たず石丸くんはまた早歩きで戻っていった。
 泣くのも早ければ、立ち直るのも早い。感情の起伏がこんなに激しいだなんて、どんな精神構造をしているんだろう。しばし、遠ざかる真っ直ぐな背中を眺める。
「なんか、疲れちゃったな......」
「そうね、苗木くん」
「......霧切さん」
 冷静沈着な声色で、まるで初めからいたかのように隣に現れ相槌を打つ霧切さんを見ると、どっと疲れが増す。彼女が神出鬼没なのは今に始まったことではないけれど、今回ばかりは言いたかった。
 いたなら言ってよ。見てたなら助けてよ。
「嫌よ。面倒だもの」
 バレた。ぎく、と僕は固まる。流石超高校級の探偵だ。優れた観察眼で読心術までできるらしい。
 霧切さんはそんな心まで読んだのか、苗木くんが分かりやすいだけよ、と無表情のまま淡々と述べた。辛辣だ。
「それにしても珍しいわね。彼が忘れ物をしたことなんか、あったかしら」
「いや、まあ石丸くんも人間だし。忘れ物くらいするよ」
「ふうん。そうなの」
 知らなかったわ。と霧切さんは冷静なトーンで返す。いや、霧切さん。石丸くんをなんだと思ってたの。


2.あまいもの
 早起きしても三文の徳どころかなんだか無駄に疲れてしまった。あれから腕章をつけ直してきた石丸くんはいつもどおり元気に、元気すぎるくらいに過ごしていた。徹夜で新興チームの始末をつけていたという大和田くんにも小言をうるさいくらいに言っていたし。結局舞園さんとは話せるどころか、会えもしなかった。聞くところによると、メンバーと一緒に雑誌の撮影だとかで今日は朝からいなかったらしい。残念だ。本当に自分は幸運なんだろうか? 寧ろ不幸なんじゃ......。そんなことを考えていたらいつの間にか昼休憩になっていた。授業の記憶があまりないのは、早起きの弊害に違いない。
 ほぼ突っ伏すような体勢から顔を上げると、視界に腹巻きと派手めなプリントシャツが飛び込んできた。
「苗木っち、大丈夫だべ? ずっとうとうとしてたべ!」
「そーそー、船こいでよ。先生とかには分かんなくても、後ろの俺らから見たらモロバレだっつーの」
 焼きそばパンの袋を空けながら言う葉隠くんと、いちご牛乳を飲む桑田くんだった。出席番号の関係で席が近い二人からは、僕の様子はそっくり見えていたようだ。
「うーん、ちょっと疲れてて」
「だよなあ! 俺もなんか疲れててよ。やっぱ疲れてるときには甘いもん買っちまうよ」
 ストローから口を離して、ピンク色の紙パックを振る桑田くん。確かにそうだ。言われてみると、僕も甘いものがほしくなってくる。なんかあったかな。今日の昼ごはんの用意をしながら思う。
「桑田っち、いつ疲れることすんだべ?」
「アホ、疲れんの。授業出るだけで」
「嘘だ、寝てるべ」
「疲れるから寝るんだろ」
「......ああ! 桑田っちは馬鹿だから思考回路がショートすんだべ。集中力続かないんだべ」
「二ダブのお前に言われたかねーよ!」
「俺はちゃんと授業受けてるべー!」
 それは違うよね。葉隠くんもわりと居眠り常習犯だよね。コントのように騒ぐ二人に軽く突っ込みを心で入れて、おにぎりを頬張った。
 話題はすぐに舞園さんの撮影の話に変わった。桑田くんがあーあ、舞園ちゃんの生写真欲しいなー貰えねえかなー、とぼやくと、耳聡い朝日奈さんにサイテー! と近くのテーブル小島から野次を飛ばされていた。朝日奈さんの前でそういう話はご法度なのに、桑田くんも懲りないなあとお思いつつも、つられて撮影中の舞園さんを想像する。うん、ちょっと欲しいかも。というか、かなり欲しいぞ。流石に桑田くんみたいに声に出しては言わないけど、やはりアイドルの舞園さんはちょっと特別だ。
「でも正直、桑田っちが舞園っちの生写真貰える確率はほぼ0%だべ。俺の直感がいってるべ」
「だが俺はあとの七割を信じる」
「それはどうかな......」
 桑田くんはキリッとした顔で言うけれど、正直僕も今回は十割当たってると思う。
 ちえ、と拗ねた桑田くんはブレザーのポケットからチョコレートを出して頬張った。
「んま。やっぱ疲れたときには甘いもんだよなあ」
 ぷん、と甘い香りが周りに広がった。口の中の甘味は蕩けて、ささくれ立った桑田くんの心を癒したようだ。ふにゃりと猫のように笑って、包み紙をポケットにしまう。なんだか香りだけで僕もほっとしてしまった。そこでふと、こういうものとは真逆の存在が頭に浮かんだ。石丸くん。彼も、食べるのだろうか。
 石丸くんは、不要物に厳しい。校則にははっきり書いてないことも有無を言わさず取り締まってしまう。チョコレートはセーフなのだろうか。朝比奈さんのドーナツは取り締まってなかったから、いいのかな。
「あ。ほら、苗木にもやるよ」
「いいの?」
「疲れてんだろ」
「ありがとう」
 出された二つの包みを受けとって、一つを口に入れる。ふんわり甘い。確かにこれは顔が緩む。ずるいべ差別だべと騒ぐ葉隠くんにも桑田くんはぼやきながらも渡していた。
「...そういや、イインチョ。疲れる疲れないのっていったら、あいつだよ」
「石丸っち?」
 石丸くん? ついさっきそのことを考えていたところだったから、言い当てられたようでどきりとした。桑田くんは読心術を使えないから違うだろうけど。
「あいつ、授業中ずっと背筋のばしてやがんの。マジで。小学校の教科書にあるみたいなやつでさ。ほんと、どんだけ集中してんのって話だよ。タフすぎ」
「石丸くんは真面目だからね」
「真面目だとかそんな問題じゃねえだろ。もーあれだぜ、あいつ俺の斜め前だろ? 視界の隅っこに電柱でもたってる感じでよ」
 まーっすぐ、とジェスチャーを加えて桑田くんは説明してみせる。そういえば今朝も、泣いてはいても姿勢は良かったな。思い出して、周りを見渡す。けれど、石丸くんの姿は見えなかった。多分、大和田くんや不二咲さんと一緒なんだろう。
「あいつ、ぜってー人間じゃねえよ」
 あ、桑田くんも霧切さんと同じことを言うんだ。
 オカルトは勘弁だべ、なんてとんちんかんなことを言う葉隠くんに、そういう意味じゃねーっつの! と突っ込みを入れると、桑田くんはまたチョコレートを口に放り込んだ。
 石丸くんには、こういうものは必要ないのだろうか。真っ直ぐ伸ばされた背中には、 チョコレートはちょっと似合わないような気もした。


3.視野狭窄
 放課後になって、先生に呼び出されたせいで他の皆より下校時感が遅くなってしまった。皆はきっともう、それぞれの場所で好き好きに過ごしていることだろう。
 呼び出された内容というのはこれはまた不運なことに、資料運搬の手伝いということだった。僕はクラスでは比較的アクが強くない生徒ということで、先生にこうして呼ばれることが多い。まあ、ちょっとばかり幸運なだけであとは特筆することもない平々凡々な僕の方が、あの個性的な面々よりも取っつきやすいんだろうということは簡単に分かった。残念だけど僕も、こんな立場でなければ彼らとは関わり合いになろうとはしなかっただろうし。
 多分誰も居ないだろうな。思いながら教室のドアをガラリと開ける。すると、え、という声が漏れそうになるのを堪える羽目になった。予想に反して教室にいたのは、石丸くんだった。彼は窓際に立っていて、ちょうどカーテンを束ねているところだった。外から射す夕日が彼をオレンジ色に染めている。
 背を向けていてもドアの開く音で僕の入室に気づいたのか、石丸くんが振り返る。真剣そうな顔がぱっ、とにこやかな顔に変わって、苗木くんか、手伝いは終わったのかと声をあげた。
「うん。石丸くんは、なにしてるの?」
「うむ、風紀委員の仕事だ」
 僕が近寄っても、石丸くんは作業を続けていた。窓から窓へと移っては、鍵を見ている。鍵のレバーが上がってないものを見つけると、わざわざあげ直していた。まさか、鍵締めの確認なんて。僕の記憶ではそんなこと、小学校の日直の仕事くらいでしかしたことがないんだけど。流石、超高校級の風紀委員だ。となるとセキュリティ管理も風紀委員の仕事なのだろうか。
「もう終わるところだがな。やはり最後が自分の教室だと、効率的でいいものだ」
「もしかしてそれ、全部の教室やってるの......?」
「そうだが?」
 じゃあ石丸くんは、この広い校舎を回ったということなのか。回って、こうして一つ一つ鍵を確認していったということなのか。その労力に、そして、それをなんとも思っていない石丸くんに唖然とした。しかし当人はというと、どうして僕が驚くのか分からない、と無垢な子供のように首を傾げている。
 よくよく思えば、石丸くんは何に対しても真摯だった。まるで息をするように、何の気負いもなく、どんな手間もかけてみせた。常人ならすぐに投げ出すようなことも平気でやった。努力で天才を超えると言って憚らない彼は、そうやって、こつこつと王道を真っ直ぐ突き進む様に生きてきたのだろう。目標を設定したら、もうそこで石丸くんは前進してしまう。指標を持つのが最優先で、自分の位置からの距離なんて気にしたこともないんだろう。
「寒くなって減りはしたが、まだまだ窓を開け放して帰るクラスがあるのだ。一応日直の仕事であると、明記してあるはずなんだが」
 最後の鍵を確認し終えて、石丸くんは満足そうに腕を組むと、隣で作業を見ていた僕に向かって今日の報告をしてくれた。うむむ、と唸っている難しそうな横顔を見上げる。口はぎゅっと結ばれていて、眉毛は寄ったしかめつら。視線は前だけに向けられている。
 きっと、彼にとってこれは当たり前なんだ。あまりに当たり前すぎて、感覚が麻痺していて、それがどんなに大変な作業か分からないでいる。彼は自分を凡人だと言うけれど、それはどう考えたって非凡だ。僕なら、校舎を回って鍵締めの確認だなんて到底出来そうにもない。きっと途中で疲れて、挫折してしまうだろう。そもそもやろうとも思わない。石丸くんには、そんなことはないのだろうか。
「石丸くんは、頑張り屋だね。僕じゃあ、全クラス回るなんて出来ないな」
「そうなのか?」
 素直に褒めるつもりで言ったのに、石丸くんは更に分からないという顔をした。どうして褒めるの、と聞かれている気分だ。
「単純作業ではないか。誰だって出来てしまうことだろう。確かに、苗木くんの身長では上の方の鍵を閉めるのは難しいかもしれないが......」
「いやそういうことじゃなくて、普通さ、嫌になっちゃうよ。そんなの」
「何故だ?」
「だって、疲れるし......」
「何を言っているんだ苗木くん。ただ鍵を上げるだけだ。小学校の時から日直の仕事になるくらいだから、簡単に決まっているではないか」
 単純作業だって、いや単純作業だからこそ、疲れてしまう。普通ならそうなんじゃないのか。同じことをずっと続けてたら、嫌になってしまうのが普通なんじゃないのか。
 一度考えてしまうと、いやに気になってしまう。
「石丸くんは、疲れてないの?」
「む? いや、疲れてはいないぞ。昨日はきっかり10時に寝たし、ラジオ体操も欠かしていない。風邪を引かないように手洗いうがい、予防もバッチリだ。だからこの通りぴんぴんしているぞ」
 なんとなく聞いてみると、ニコリと目を細めて口角を上げる、いつもの笑顔を見せてくれた。
そういうことじゃ、ないんだけど。
 訂正しようか迷って、止めた。なんとなく、分かってもらえない方がいい気がした。
「僕はこれで寄宿舎に戻るが、苗木くん。君はどうするかね」
「僕も帰るよ。用事ないし」
 僕は頷いて荷物をとった。そういえば、石丸くんと帰るなんてそんなに無いかもしれない。横並びになると、ちょうど腕章が見えた。僕と石丸くんの身長差はかなりあるから、自然とそうなってしまうのだ。なんとなく気になって、ちらちら見てしまう。怠り知らずの石丸くんなのに、なんで今朝はこれを忘れてしまったんだろう。そんな考えが浮かんで消えた。


4.BREAK
 その夜、何故か妹の夢を見た。
 そこでは妹はまだ小さな、そう、僕より小さな可愛らしい子供で、僕はいつも彼女に振り回されていた。そんな小さな体のどこに力が隠れているのか、公園に行けば元気いっぱいに走り回ってあっちへ行きこっちへ行きをし、僕がへとへとになってもまだ遊ぼうと急かす。そのくせ、急に電池が切れたみたいに寝てしまい、結局僕がおんぶする羽目になってしまう。 あの頃はきっと、妹の中には「疲れる」だなんていうことがなかったのだ。限界まで遊んで、切れたらそこでおしまい。 夢の中で背中の重みを感じながら、僕はある種の懐かしさを覚えていた。
 いや、これ、なんか重すぎないか?
 そう思った瞬間、みるみるうちにずしりと重くなってゆく背中の妹に、僕は背負いきれなくなっていく。あ、駄目だ、潰れる。
 そこでぱちりと目が覚めた。と、同時にピンポンピンポンとチャイムを鳴らす音が聞こえてきて、慌てて時計を見た。カチリと思考が現実に切り替わる。やばい、寝坊した。やっぱり昨日早く起きすぎたのが悪かったんだ、と適当に理由を付けて慌てて準備する。寝間着を脱ぎ捨てて、カッターシャツ、スラックス、パーカー、ブレザーと急いで身につけた。誰が来ているかはわかっているからベルトを締めるのもそこそこに、飛び出すようにしてドアを開けた。そうするうちに夢は薄まって、僕はもう覚えていない。
「ごめん、石丸くん! 今起きたとこで......」
「グッモーニンだ、苗木くん。遅いぞ! 朝食会に遅刻してしまう!」
 ドアの前ですっくと立ってお決まりの台詞を告げるのは石丸くん。いつも通り、至近距離にはつらい音量だ。服装も、体裁を整えただけの僕とは違って、きっちりとしている。風紀の腕章も、今日はちゃんとついているし。そうやって石丸くんの左腕をつい確認してしまうのは、昨日あんなことがあったからだろう。
「今日も元気そうだね」
「うむ。僕はいつでも元気だぞ!」
「そっか。あ、もうちょっとかかるけど、間に合うように出るから」
「全く、苗木くん。昨日はあんなに早く起きていたのに、残念だ。君は少し呼ばれればすぐに起きられるのだから、きちんとしたまえ。もう今月通算10回目だぞ。......ああ、まだ回らねばならないので僕は失礼するよ! きちんと遅刻しないように食堂に来るように」
「うん、じゃあ後でね」
 敬礼をする石丸くんを手を振って送り出す 。このやりとりももう何回目だろうか。何度起こされても僕や他の寝坊常習犯は懲りないし、石丸くんもこうして起こして回るのを止めてしまうことなんてない。それが日常になっている。石丸くんの起こしにくる時間に起きれば、十分朝食会に間に合うと分かっているからこんなことになっているのだと石丸くんが知ったらどうするだろう。わからないけど、止められたら困るな、と思った。誰かに起こしてもらうのが、嬉しいのかもしれない。遠くなる背中を見送って、ドアを閉める。閉めようとした。
「あれっ」
 ドアがガツ、と音を立てて半端な位置で止まってしまった。もう一度ドアを開けて見下ろすと、ペンが一本足元に落ちていた。これが挟まっていたんだと気がついて、拾い上げる。 さっきは普通に開け閉めできたから、たぶん石丸くんのものだ。落としてしまったんだろう。うっかり挟んでしまったけれど、よくよく見てもペンには特に傷はなかった。壊してなくてよかったと安心する。
 後で渡そう、そう考えてブレザーのポケットに入れ、僕は今度こそドアを閉めた。
 その「後で」は、朝食会より後になった。朝食会が終わってから登校にまでは結構時間がある。だからその間にこっそりと渡そうと決めていた。みんなの前で渡して、昨日みたいなことになったらなんとなく石丸くんが可哀想だと思ったからだ。
 食堂から帰って石丸くんの部屋の呼び鈴を鳴らすと、すぐに出てきてくれた。
「おや、苗木くん」
「えっと、あのさ。見せたいものがあって......」
 僕はブレザーのポケットにてを突っ込んで、お目当てのものを探す。ざらっとした紙やかさりというビニールを指がかすめて、コツンと固いものに当たる。これだ、と取り出して、見えるように前に出した。
「石丸くん、これ。落とした?」
「ああ! すまない、僕のだ」
「やっぱり。僕の部屋の前に落ちてたんだ。多分、朝のときに落としたんだと思う」
「わざわざ持ってきてくれるなんて」
「いや、いいんだよ」
 ペンを見せると、石丸くんは目を丸くして驚いた。落としたことに気づいていなかったようだ。少し恥ずかしそうに顔を赤らめる彼に、ペンを手渡す。
「苗木くん、ありがとう」
「ど、どういたしまして」
 石丸くんはこういうときも真面目だ。改まってお礼を言われるのがくすぐったくて、僕はペンを渡した手をポケットに突っ込んだ。
 持ち主がちゃんと石丸くんで合っていて、そして石丸くんがあまり取り乱すこともなく受け取ってくれてほっとした。昨日みたいに泣かれてしまったらどうしようと思っていたけれど、どうやら昨日のは特別だったみたいだ。どちらにしたって、石丸くんが忘れ物や落とし物をするなんて珍しい。冗談でなく、本当に。
「恥ずかしいな。普段なら拾う側なのだが......」
 石丸くんは手のひらの上にあるペンをじっと見下ろし、呟く。やっぱり、疲れてるんじゃないかな。昨日のことが思い出される。あの口ぶりだと手間を手間と、疲れを疲れとも認識していない感じだった。あのときは分かってもらえないほうがいいなんて思ったけれど、それはそれで気の毒だ。いつか見えない疲れが溢れ出してしまったら、今度は腕章やペンじゃ済まない。きっとそのとき、疲れることを知らない石丸くんは、自分の努力が足りないのだと責めるのだろう。そしてもっと気を張りつめて、精神をすり減らしていくんだろう。石丸くんにはガス抜きが必要だ。
 でもそんなこと僕に伝えられる自信もないし、そもそもただのお節介なのかもしれない。所在なく手を動かしていると、ポケットの中でかさかさと音をたてるものが何か、思い出した。
「あと、これあげる」
 取り出して包装を剥ぎ、石丸くんの手に置いた。それは昨日桑田くんに貰ってそのままにしていたチョコレートだった。疲れたときにはチョコ。そうやって桑田くんが言っていたから。
 わざわざ開けて渡したのは、突き返されたら困るからだ。真面目な彼のことだから、自分の触ったものを相手に食べさせようとは思わないだろう。
「チョコレートだよ」
「い、いや! 苗木くん、落とし物を届けてもらったばかりか、こんなものまで貰ってしまってはあまりにも面目ない!」
「いいよ。それにもう開けちゃったんだし、食べて」
「しかし」
「いいったら。はやく食べないと、溶けちゃうよ」
「むう」
 急かすと、躊躇いながらもチョコレートを摘まんで口にいれた。甘い、と頬をチョコレートの形に出っ張らせた石丸くんが物珍しそうな顔をして感想を漏らす。それきり、何も言わなくなった。きっと、夢中で舐めているんだろう。そもそも口にものを入れたまま喋るなんてことはしなさそうだし。
 もしかして、こういうのあまり食べないの? と聞いたら石丸くんは頷いた。そして少し迷った風な顔をしてからポケットからメモ用紙を取り出すと、持っていたペンで、『嗜好品はあまり口にしない』と達筆な字で書いて見せた。『美味しい』と続ける。
「そうなんだ」
 石丸くんは確かに努力をして色々な知識をつけてはいるけれど、知らないところは本当に何も知らない。それか知ってはいても、自分とは完全に切り離しているのかもしれない。それは、いいことなんだろうか。ちょっとはよそ見くらいしてもいいんじゃないか。考えているといつの間にか食べ終わった石丸くんが、ありがとうと言って笑っている。続けて美味しかった、と言いかけて、止まった。
「あ」
「どうしたの?」
「歯磨きをし直さないと」
 深刻そうに言った石丸くんがおかしい。もっといい加減でもいいのに、と思う。こんなだから、知らないうちに疲れてしまう。こんなだから、身を削っていることにさえ気がつかない。
 でもそれでこそ、とも思った。そうでないと、この一本芯は作れないのだろう。そうでないと、超高校級の風紀委員にはなれないのだろう。
 だから、僕ができるのはきっとこれくらいのことだ。
「なんだね、そんなに笑って。変だぞ、苗木くん」
 だけどこれくらいのことでも、こんな石丸くんが見られるなら十分価値があるはずだ。いつもとは違って和らいだ、肩の力が抜けた表情は僕の心を温かくした。

 

すごく古すぎてタイトルがなかった

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