死期について
(王者の遊戯 桃園+趙雲)
聞くところによると、という呟きが不意に部屋に落ちた。
ちょうどその時、しゃがみこんで関羽たちが持ち込んだ土産の類を整理していた趙雲は、はっと手を止めて顔を上げ、座敷の上に目を移した。格子窓にもたれかかるようにしていた劉備は、いつものどこを見ているのかよくわからないぼんやりした表情をしていた。それは一見退屈紛れに吐いた独り言にも、天下の情勢に思いを馳せているように見えたので、趙雲は念の為どうかしましたか、とだけ言った。こういう彼の呟きには普段なら張飛あたりがすぐに反応を返すものだが、生憎劉備の義弟たちは一時的に席をはずしていて部屋に残っていたのは趙雲だけであった。だから今回、その役目は趙雲が負うことになったのだった。
趙雲は慎重にその瞳がどのような色をしているか、盗み見た。彼が主とする劉備という人は大抵の場合、語調を変えたりしない。今晩の食事の内容を自身の義弟に問うときも、立ち寄った町の悪政に対する嫌悪を述べるときも、同じような声色で言う。彼と長く共にいる関羽と張飛はそんなことはないと言うが、なんせ趙雲には軍師を探してくると言い置いて飛び出してからここまで至るのに二年間の空白がある。自分でもどこで何をしていたかさっぱり分からないのだが、「劉」の旗のもとにはいなかったことは確からしい。一度得た感覚をまたもとのように取り戻すには時間がかかるのだと自身に言い訳をして、劉備の瞳の中に潜む思いを拾い上げようと努めた。
「おや、趙......趙雲」
劉備はそこで呟きを聞かれていたのだと気付き、話し相手を捕まえたと喜ぶように口の端をほんの少しだけ釣り上げた。てっきりもう名前を覚えてもらえたものだと趙雲は思っていたが、二年という流れた月日を取り戻すのは難しいようだった。ああ、俺に向かって言っていたのだなとそこで趙雲はようやく分かってほっとし、一方で向こうから答えを与えられてほんの少しだけ落胆した。主の意図を図る必要性が失われたと同時に、もう彼には劉備をぶしつけにもじっくりと眺める正当性はなくなってしまったからだ。
劉備は聞くところによると、ともう一度繰り返した。
「よき人ほど早く死ぬそうで」
死ぬ。なるほどそれなら乱世になるわけだ、と趙雲はその誰から伝わったとも知れない言説に思わず納得してしまった。そして、今自分の手にあるかじりかけ瓜のことを思った。なんだって、上等なものから収穫する。この瓜もきっとそうだった筈だ。挨拶ついでに人からもらったものだが、みずみずしくて美味かった。実際上等かは知らないが、それだけで趙雲にとっては上等な瓜といえた。いいものは早く売れる。よき人は早く死ぬ。
そしてこの人もそうなるかもしれない、と言うところにまで考えが至ると、趙雲はさっと血の気が引くのを感じた。嫌だ、そんなことがあってはならない。
「いや。劉備様は死なせません」
「死にませんよ、私は悪人ですからね」
「違います、そういうことではありません。死なぬように俺たちが守ります」
もう、大切な人が死ぬのを見るのは御免だ。趙雲の頭をいくつもの凄惨な情景が流れては消えて行った。同時に左手の瓜が、人の手に取って代わったような錯覚を起こしてぐっと息を詰まらせる。俺は守れなかった。いつだって、守れない。左手を覆う手は、武骨で大きな大人の手から少年の白く、小さな手に変わる。大人の手は兄の手だ。けれどもうひとつの手の主を趙雲は知らない。誰の手だ? と思ったのも一瞬のことで、すぐに元の瓜に戻ってしまう。趙雲にはついぞそれが誰かを思い出せなかった。
「......それではあなたが早死にしそうですね」
劉備は何もかも見透かしたような目をして、あごのところに手をやって考えこむような仕草をした。それから、ほうと息を吐いて両手をすり合わせながら火鉢で暖をとった。かざされた手は趙雲の脳裏に浮かんだ二つの手のどちらでもなかったが、考えるのが苦手な趙雲はその問題をひとまず保留にし、自分は早死にしてもよいから、この手こそはそうならぬようにせねばなるまいとだけ思った。
「俺は、それでも構いやしませんよ」
「そうですか? 私は長生きしたいです。許都の食事も、とても美味しい事ですし。体にいいのはやはり薬膳だと、関羽はなかなか外食を許してくれませんが」
「......はは、そりゃあいいや。どうか、長生きしてください。劉備様は、皆が笑って暮らせる世の中で、うまいもん食ってる方が似合ってますよ」
劉備はときどき、こちらが真剣にかけた言葉を、気の抜けた言葉ではぐらかすときがある。そういうときは大抵、胸に隠した本音を、口にしないことで伝えてこようとしているときだと趙雲は最近知った。ひっそりと、誰の目にも触れないように渡された贈り物を受け取った趙雲は、ああこの人は俺にきっと長生きしてほしいんだな、と感じて、そっとそれを胸に仕舞う。
そしておどける劉備にあわせて、一緒に笑った。この人はどうか長生きしてほしいと趙雲は願う。長く、この乱世が終わるまで。
「長生き、したいですねえ」
ふふ、と微笑む劉備を見て平和を感じて、何気なく趙雲は止めていた手を動かしまたごちゃごちゃした色々の整理に戻ろうかと劉備から目を離しかけたその時、きらりとその深みのある緑の瞳が意味ありげにきらめいたのを趙雲は視界の端で捉えた。あ、ろくでもないことを思いついたんだな、と趙雲が思うより先に、ぽんと劉備が手を打った。
「そう。義弟たちよりも短いと、もっといいですけれど」
とんでもないことだ。趙雲は口にもっていった瓜の残りを顎に擦り付ける羽目になった。
「長生きって、言ってるでしょうに!」
・・
それでもあの人は、冗談だなんて一言も言わなかったな、と趙雲は今更になって思い出した。町のものや兵卒でがやがやと騒がしい場の雰囲気と、水で薄められていない酒に酔っぱらった頭で考えるものだから、つい分別などなく、隣でぐびぐびと酒を煽っている仲間に聞いてみようなんて思ってしまった。
「なあ、張飛殿」
「ああん? なんだよ子龍、しけた面してんなあ。もうつぶれちまったのか?」
「なにい、んなことねえさ。俺はその気になりゃ、甕からでも飲めらあ」
俺だってそうだよ、と言い返してくるのは劉備の義弟が一人、張飛だ。夜になり、酒盛りをしたいがする場がないということで二人で連れ立ってここまでやってきたのだ。金はさほどなかったが、その場にいた生意気な酔っ払いに絡まれた際、飲み比べで勝ち取った酒がたんまりあったので二人は気兼ねなくよく飲み、食べることが出来た。見上げるほどの巨漢の趙雲と銀髪に褐色の張飛はそれだけで人目を引いたが、あまりの飲みっぷりにかえって人は彼らを避けるようにして一定の距離を置いていた。
「ああ、いや。よき人は早死にするらしいと、今日聞いたんだ」
「は?」
張飛はあんぐりと口を開けて、それから釣り気味の目をかっと見開いた。それから、これは本当に趙雲なのだろうかと、酔っぱらって違う奴に話しかけられたのではないかと疑って目元を数回擦った。
「ほんとお前、二年の間に何があったんだよ......」
趙雲の鼻筋に出来た傷跡や、短い髭の生えた顎、椀を持った武骨な手などをじろじろと不審げに見て、張飛は以前趙雲の口から策の重要性を聞かされた時のようにむくれてみせた。
趙雲は残念ながらその二年間のことをすっぱりと忘れているのでなんとも言えず、椀の酒に口をつける。そしてゆっくりと、日中の出来事を思い返しながら、よき人ってのは劉備様だろう、とぽつんと言った。
「俺は、あの人が早死にしてしまうんじゃないかって、心配になったんだ」
それを打ち明けた時、趙雲はどこか張飛に殴られることを期待しているところがあった。酔いに浮かされた頭で、前向きで考えるのが苦手だと自称する張飛に、そんなことを考えるんじゃない! と怒鳴りつけられて、もうそんなことを言うんじゃないと脅される自分を想像していた。そうしたら、この弱気な気分も、劉備が誰よりも早く死んでしまうのではないかという恐れも吹き飛んでいくような気がしていたし、そう願っていた。
「馬鹿なこと言うなあ」
しかしながら、現実はそうでなかった。張飛は意外にも、しょうがないなと一人で眠るのを怖がる子供をあやすように柔らかく笑って、趙雲の背を軽く二、三回叩いてみせた。
「俺と兄者たちは、死なばもろともって誓い合ったんだぜ」
趙雲も聞いた覚えがある。義兄弟となる際に、生まれたときは違えども、死すときはともにと桃園で杯を交わしたという。簡単に言うとそういう話だ。三人の強固なつながりを表していて好ましいと趙雲は思っていたのだけれど、今それを聞かされた趙雲は空の杯をうっかり手から取り落とした。落下した杯を張飛は器用に足で蹴り上げ、ぱっと手で掴むと唖然とする趙雲の手元に置くという離れ業を見せる。
確かに誓いは誓いだろう。死すときはともに、と言える間柄の義兄弟はこの世にこの三人しかいないと感じた位だ。しかしそれが成るのは現実問題ひどく難しいことだと趙雲は考えていた。特に、彼の義兄が望む平和な世の中が近づいてくればくるほど、その誓いが果たされることはなくなるだろう。けれど張飛は当然その日がやってくるものだと信じている。子供のような無邪気さで、趙雲の心配事を握りつぶした。
「そういうことは考えないもんだ。兄者の死ぬときが、俺たちの死ぬときなんだからよ。早いとか、遅いとか、ないんだ。早かろうが遅かろうが、俺たちはいつかいっしょに死ぬんだ。俺が死ぬときが兄者の死ぬときなんだから、兄者の早死にを心配したって無駄だろ」
・・
くしゃくしゃに丸められた趙雲の不安は、翌日になって酔いが覚めても心の片隅に居座っていた。あの時、張飛に吹き飛ばしてもらうはずだったそれは丸められた分密度を増して趙雲を苛む。自分に似ていると思っていた張飛にあんなことを言われてしまったことが、相当堪えているらしかった。
長生きしたいと語る口で義弟より早く死にたいと言う劉備、ともに死ぬのだと疑わない張飛。そのどちらを前にしても、不安が募った。よき人は早死にをするのだ。それは早く死ぬからではなく、惜しむ人を残して死ぬからだろう、と趙雲は考えた。だから長生きをしたいと言いつつ、義弟より早くと言った劉備は義弟たちを自分のなかで長生きさせたがっているのかもしれない。他人を思いやれるのはよき人だ。しかしよき人は早く死ぬ。張飛は恐らくそれをよく知っていたのだ。だから、あんな、子供を見るような目をしたののだろう。その問題はなぜ空は青いのかということと、彼のなかでは同じところにしまわれていて、疑うこともしないのだ。
趙雲は実のところ考えるのは苦手なはずだったが、どうしてもやめられない。趙雲はただ守りきることを考えているのに、そうしたいと考えているのに、彼らはそうならなかった時のことを考えている。成すべきことを考えるその頭の隅で、同時に果たせなかった時のことを勘定している。しかしそれでも平気な顔をしている。なんて破滅的思考なのだろう。いや、愛情なのか。俺は愛するものを守りたいと思う。なのになぜ二人とも。趙雲は頭の中でいくつもの思いを巡らせて、どうにか整理しようと必死になっていた。
「休むか」
頭の中でわけもわからず駆け回っていた趙雲は、その低い声で現実に引き戻された。
「関羽殿」
趙雲は彼の涼しげな顔を認識し、軽く持つだけになっていた槍を握りなおした。そこでやっと自分が警備にあたっていたことを思い出して、慌ててすまない、と謝罪の言葉を口にした。関羽は特段気にせず、疲れているなら早く言わないかと趙雲を労い、扉を挟んで趙雲の隣に立った。
それでも趙雲は休息をとることを丁重に断ったので、それでは二人でということになった。しばらくの間、無言でいた趙雲と関羽であったが、先に口を開いたのは関羽だった。
「益徳から聞いたのだが」
世間話のような気軽さで、関羽は言う。こんな風に関羽に話しかけられることはあまりないので、趙雲はつい身構えてしまう。
「私は兄者に置いてゆかれるなら、置いてゆく方が余程いいと思っている。兄者においてゆかれるということほどの悲しみも、悔しさもない。兄者を守って死ぬのなら、本望だと思っている。私が死んでも、兄者が生きてくれればそれでよいのだ。私は益徳ほど悲観的でもないのでな。私の死がすなわち兄者の死だとは思わない」
突然この人は何を言うのだ、と趙雲は憮然とした表情で、滔々と喋る関羽を見た。そんな顔をする趙雲を理解が足りんというような、非常識なものを見る目で関羽はじろりと睨むのだが、趙雲にとっては非常識なのは急に洪水のような語りをぶつけてきた関羽そのものであったので、理不尽だと文句をいう代わりに関羽の首元あたりに視線をずらした。
「兄者を置いていくほうがいい、という話だ」
なかなか返事をしない趙雲に愛想をつかしたのか、それと元々ただ演説を披露したかっただけなのか、ふいとそれきり何も言わなくなってしまった関羽に、趙雲はかける言葉が見つからなかった。
けれどこの人は、きっと自分と同じなのだと思えて、ただその腕の中のものを守りたいだけの人種なのだと理解できて、それでようやく、趙雲は昨日今日と自身を慣れない思考のるつぼに落としていた不安を箱に入れてしまい込むことが出来た。
初出:2016/8/21「死期について」