隷属
(完独 R15)
あの、ディビジョンラップバトルシンジュク予選大会前に起きた、リョウゴク総合医院での心電計故障偽装事件があってからも、その犯人である完甘がリョウゴク総合医院を辞めるということはなかった。普通ならしかるべきところで処罰を受けるだろう、と完甘本人さえも思っていたのに、次に彼が出勤したときに目にしたのは、ただただいつものように働き、自分ににこやかに挨拶をしてくる医院の看護士だった。
完甘はすぐにどういうことなのか事態を把握した。あの、憎らしい神宮寺寂雷が、すべてをなかったことにしたのだ。普通なら、医師免許を剥奪されるようなおおごとであったのに、当事者が誰も(忌々しいことに、ほんの一人もだ!)告発しなかったことで偽装自体がそもそもなかったことになっていた。
また、心電計の故障も点検ミスではなく不幸な事故であると判断されたということで、観音坂独歩が務める医療機器販売会社との取り引きも打ち切られることはなく、完甘はあれからも医師を辞めずいままでと同じような日常を続けていた。
「観音坂くん、いつもご苦労だね」
「恐れ入ります。リョウゴク総合医院様には弊社も特別懇意にしていただいていますから」
「それで、今日はいま使っている血圧計の点検をお願いしたいんだがね」
「ええ、完甘先生が使ってらっしゃるのは確かすこし前の型の物でしたね。僕が点検している間に、こちらの資料をご覧になってお待ちください」
「ああ、うん。導入しろっていうんだろう」
「お気に召しましたら」
観音坂独歩は、そう控えめに言って、小さく頭を下げて血圧計の点検を始めた。完甘は、いたたまれない気分でカタログをめくった。
依然として同じポストに居続けさせられている完甘の担当営業は、今まで通り観音坂独歩であり、それは神宮寺寂雷による完甘に打たれた大きなくさびのように機能していた。自分が悪人であるということを知っている相手に頻繁に会うことを強制されるのだ。観音坂独歩に会えば、あの日のことを思い出さずにはいられない。マイクをとってさえも神宮寺寂雷に勝つことができなかったあの日の。もはや呪いのようですらあった。
観音坂独歩は、事件以降もまるでそれがなかったかのように完甘に接した。完甘にとってはそれがかえって気味がわるく、恐ろしかった。考えていることがわからない人物を相手取ることほど、怖いことはない。
彼が来るたびに、自分が医者として失格であると、人間として最悪の生き物であると罵られるのではないかと恐怖した。新しい医療機器の説明を淡々と丁寧にする彼の口から、いつ侮蔑の言葉が発せられるだろうか、と完甘はそればかりを気にしていた。
殺意のメスは神宮寺寂雷に届かず、さらに打ちのめされるどころか、自分の喉元につきつけられている。いつだって殺せるのだ、自分のことなど。
「血圧計も、道具ですから。使っていれば自然壊れもします。心電計もね」
「は」
ふと、観音坂独歩がそう言った。はじかれるようにして完甘が顔を上げると、彼は立ち上がって、「取り替えるのなんて自然ですよ。でも、人間はそうもいかない」と続けた。
「お、おい、観音坂くん」
「完甘先生、今の日本人口の何割が医者か知ってます? あんたは人間の屑だが、医者には医者だ。しかも外科医。外科医がどんだけ貴重かあんたもわからんわけじゃあるまい。人を手術できるドブネズミがいたら、殺すなんてもったいない世の中だ。無論、それ以下でもだ」
完甘は、二の句がつげなかった。自分は、この見下していた愚鈍な営業にさえ、ドブネズミ以下の存在と言われる畜生に成り下がってしまったのだと、察した。
「あんたにできることは、俺たちにおびえて、いつ殺処分されるのだろうかなんてそれであたまいっぱいにしながら、一生人間という生命に奉仕する家畜奴隷として生きることだけだ。そうだろう、畜生(せんせい)?」
観音坂独歩が薄気味悪く目を細めて、到底「先生」に向けて言うふうでない口調でそう言ってこちらに近寄るごとに、完甘は無意識にずりずりと後退していった。ぴたり、と壁にあたると、逃げ場がなく、完甘はそのまま腰を抜かして座り込んだ。
「なあせんせい、あんた腕だけはいいんだ」
「ああ、観音坂……。なあ、もう許してくれ、俺が悪かった!」
完甘は声を上げて赦しを請うた。もうこんな生きているだけの地獄にいたくはなかった。しかし、観音坂独歩は、持っていたボールペンで完甘の額をこつんと叩いて、「許してるじゃないですか」と言った。
「赦してやるものか、と、人間の生命を軽んじたあんたを絶対赦してやるものかと思いました。でも、先生が……寂雷先生が、なら良い方法があるって言うんです。あんたがやった悪行みんな、あんた自身が暴露したって誰にも信じてもらえやしません。”解って”もらえないんだ。言ったって、寂雷先生がもみ消しますよ。ただあんたが変なこと言っているって思われるだけです。あんた一生“リョウゴク総合医院の完甘先生はおやさしいから、取引先の会社員をかばってる”って言われます。まるであんたが善人であるかのようにだれもが、この世の誰もが扱います」
地獄だ、と完甘は思った。観音坂独歩は、冷たいブルーの目で完甘を見下ろしていた。ただただ無表情のそれが、どうにもあの日バトルで敗北し仰向けになって目にした神宮寺寂雷の、完甘に全く興味が無いという残酷な瞳と同じに見えた。
結局どうあがいても、完甘は神宮寺寂雷から逃れられない。どうしたって、数年前の再演にしかならないのだ。皆が神宮寺寂雷を信じ、完甘の味方をするものなど誰一人居なかった、あのときの。
「ああ……、俺は……」
完甘は、自分がもはや畜生以下の劣等生命となりさがり、目の前の、よれたスーツを着たただのサラリーマンが自分の主人であると、そうあることしか今後一切赦されないのだと完全に理解した。理解して、そして静かに頭を下げると観音坂独歩の靴をなめた。
つるりとした革靴に舌を這わせ、完甘は丁寧によごれをなめた。泥の味がしたが、それは今の自分にふさわしいたべもののようにすら思えた。勝手に靴をなめだした完甘を、観音坂独歩はつまらなそうに見て、戯れに爪先で彼の顎を持ち上げた。
「なめてなにになるっていうんですか。それなら裏路地にいるくつみがきのホームレスの方に五百円払って磨いてもらいます。あんたがなめたって汚れるだけだ。こんなことで俺が喜ぶと思うなんて、あんたほんとに切開と縫合だけが上手いゾウリムシだ」
それから観音坂独歩は、軽く完甘の頬を靴でぶつと、「俺が望むのは、あんたがせいぜい長生きして、人間様の命を救うそれだけですよ。よく覚えておいてくださいね、せんせい」とペットに言い聞かせるようにこぼした。
完甘は、被虐のよろこびに濡れた目で、観音坂独歩と、その背後に映る神宮寺寂雷に頭を垂れた。そうするしかなかった。
・・・
「……ああ、夢か」
目が覚めて、完甘はほっとした。あんな恐ろしいことはなかったのだと安堵した。あんな、ひ弱な営業に屈辱を与えられるなど、そんなこと考えるだに忌々しい。
なのに、なぜだか体は興奮していた。靴をなめたあの感触も、見下されたときの背中に走る法悦も、本当にあったことかのように思えた。はあ、と吐く息は熱っぽい。風邪か、と思えば下半身に違和感があり、見ればべっとりと精液がついていた。
彼は無言で高ぶった自身をしずめるため、マスターベーションを始めた。
頭に浮かぶのは、自分を見下す観音坂独歩の姿であった。
おわり
あとがき
観音坂独歩とその後ろに見える神宮寺寂雷、二人を恐れそして屈服する完甘先生かわい~~~の話です。一二三くんはどう出せばいいのかわからんで出せませんでした。