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名前のない関係

幻独 喫茶店で会話してるだけ。コミカライズバレあり


「科学者になるひとってすごい頭が良いなんていうじゃないですか」
 夢野幻太郎は、小説の草稿を読んで誤字脱字をチェックしてくれている、観音坂独歩に向かって言った。独歩は重たい前髪に覆われた顔を上げて、ネオンブルーの目で彼を見る。仲間でもない、助けたい相手でもない、ただの知り合いであるところの彼は、「でも、実際、大学に行くのは難しいし、研究の道に進むだなんてもっと難しい」とかえす。
「専門家・知識人・識者なんてよくいいますけれど、あんなのみんなこどもでもできる。小さい子が言うでしょう。『ねえママ、なぜ空はあんなに青いの?』」
 声を子供のものにして、幻太郎は独歩をからかっているかのようだ。事実、からかっているのだろう。けれども、独歩はそれを腹立たしいとは思わない。「幻太郎くんは、難しいことばかり言う」
「単純です。みんな馬鹿なんですよ。ショウジョウバエと毎日にらめっこして、生きる人間なんて、賢いというよりは、執着しているって言えます。毎日書類つくって現場対応して営業してる貴方の方がよほど『賢い』ですよ」
「褒めてないね」
「褒めてますよ。まあ、嘘ですけど。つまり、なにが言いたいかというと、ある分野で成功してる人間っていうのは、とんでもない執着心があるっていうことです」
 そこで、幻太郎は、手に持っていた文芸雑誌をぐしゃりと丸めてゴミ箱に突っ込んだ。【天才文豪 今年も××賞受賞】の見出しがおおきくゆがむ。
「たしかに、一二三は、つよいこだわりがある。そして、君もだ」
「シンジュクナンバーワンホストと並べてもらえるなんて、麿、うれしいでごじゃるなあ。いやあ、本当にうれしい。恐悦至極」
「ごめん、でもそうだろ。君だって、その本を読んで喜んで欲しいのは一人だけで、俺でも、全米でもない」
 その一人のためならなんだってやれるっていうのは、執着以外のなにものでもない。不毛な会話をしているな、と独歩は思った。
 独歩と幻太郎は、友達でも仲間でもない。ましてや、彼の【たった一人】でもない。それは独歩にとってもおなじだ。独歩には一二三がいる。腐れ縁の幼なじみで、神経ジリ貧の独歩が命をつないでいる【たった一人】の理由になるとすればそれだろう。だから二人はただの知り合い。ただの知り合いで。それ以上になれるはずもない。
「でも、まあ。それでいいよ」
 でも、そのぶん気楽なところもあった。それでいい。それ以上望まない。「わるいことなんか、ひとつもない」
 それでいいよ、という独歩の言葉はちいさな錠前のかたちをして、幻太郎の心に忍び込む。鍵付きの嘘でかためられた幻太郎は目を丸くして、「俺に優しくしないでくれ」と小さい声で言った。
 その独白は、独歩に届く前に、「ホットコーヒーです」という店員の言葉と、店内のラジオから流れるスローバラードの中に溶けて消えた。

 

あとがき
 お互いのともだちにもなかまにもオンリーワンにもなれない二人が死ぬほど好きです。
(BGM:スローバラード/忌野清志郎)

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