善行
(エッジ軸のいちどぽ 17×27。エッジ一話より前)
「カカポって鳥がいて」通勤快速を待つ行列の後ろに並んだ女子高生が、友達に向かってスマートフォンを見せた。
「絶滅危惧種なんだって。飛べないから、外来の動物に食べられちゃう。もう世界に百匹くらいしかいないんだよ」
「へえ。かわいいのにね」
「ほら見て。むくむくしててめっちゃかわいい」
「かわいそう。絶滅しちゃうのかなぁ」
呑気にスマートフォンの画面をスワイプしている少女たちは、かわいそうだね、と繰り返した。
俺は、ガラケーでポチポチと【カカポ】と入力して検索結果を見た。画像欄に太った緑のオウムの写真が出てきて、確かにこの様子じゃ絶滅しても仕方がないように思われる。
太ったオウムのつぶらな目と、俺の死んだ魚みたいに淀んだ瞳が合って、つい、「そんな目で見るなよ」と言葉が口をついて出た。
どうせ、人間が連れてきた外来種の動物のせいで絶滅しそうになっているに違いないのに、ぴかぴかした真ん丸の目は、そんなことをちっとも知らないと言っているようだった。
人間なんてものはクソッタレばっかりで、お前が思っているような素晴らしいものではないんだよ。ニュースサイトの、人間を恐れるどころか懐くように寄ってくる野生の鳥の動画を見ると、憂鬱な気持ちが膨らんだ。
カカポは絶滅してしまうのだろうか。まあ、いつかはしてしまうのだろうな、と俺はため息をついてガラケーを閉じると、ちょうど停車した満員になっている電車に体を滑り込ませた。
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当たり前のように今日も仕事は定時でなんか終わらない。疲れからか家に近づくにつれてだんだんと足が重くなっていて、それでも帰れば同居人がおいしい夕飯を作り置きしてくれているのがわかっているので棒のようになった足をとぼとぼと動かしてシンジュク駅へとむかった。
もう深夜になろうかというところだというのに、こんな時間になっても、駅の周りには人がひしめいている。先の大戦で人口が三分の一になったとはいうものの、復興が進んでいる都心部の喧噪はあまり戦前と変わらない。
俺は高架橋の下で身を寄せ合っているホームレスをなるべく見ないようにしながら、西口の改札をくぐろうとした。シンジュク・ディビジョンはきらびやかではあるものの、その実どこまでも自己責任の街で、戦後に爆発的に増えた浮浪者に対してもそれは同様に適用される。
冷たいと思えるが、その無関心ゆえに俺みたいなどうしようもない不器用の塊みたいなやつでも暮らしていけるのだと解っているから、この街の流儀に従うほかないのだ。
別に正義感が強いというわけではない。ただ、朝の女子高生の会話が耳に残っていて、いやに気が滅入っただけだ。人間のせいで絶滅に向かうカカポは可哀想だ。助けてやらなければならないと保護活動が行われている。なら、そこに転がっている家をなくした老人たちは? 俺はどういう顔をして彼らを見ればいいのだろう。
とかくこの世は悩ましいことが多すぎる。そして、大概そういうことは俺なんかが考えても仕方の無いことなのだ。27才のしがない会社員ができることなんて何一つとしてありはしない。
ほとんど神経衰弱になりながら、俺はポケットから手帳を取り出した。イライラしたとき、どうしようもない感情に襲われたとき、決まって手帳の空白スペースになにかしらを書き付けるのが癖だった。同居人の伊弉冉一二三には、作詞家にでもなればいいのになんて茶化されるばかりで自分としてはやめたいのだが、癖というものはなかなかなおらないらしい。
「あ」
連勤で疲れ切った人間というものは、胸ポケットから手帳を取り出すことすらうまくできないらしい。開こうとしてぼとりと落ちた黒いカバーの手帳を拾おうとしたけれど、そのまま無関心な人波に流されてそれは叶わなかった。仕事の予定は携帯電話のスケジュールにも書いてあるが、それでも手帳をなくすのはまずい。
しかし雑踏が止まってくれるはずもなく、ホームまで押し流されたところでやっとのことで集団からはなれて一息をつく。運良く開いていたベンチに座って、どうしたものかと考えて、そのままではいけないからとりあえずはもどるしかあるまいと足に力をいれた。
「あの、お兄さんっすよね」
ぱ、と顔を上げると、学ランを着た少年が立っていた。何が、ととっさのことに声が出ない俺を見て、少年は頬をかいて繰り返す。
「あの、これ。あんたが落としたでしょ」
そう言って差し出されたのは、確かに俺の手帳だった。
「拾ってくれたのか」
手帳はカバーがすこし汚れていたが、特にひどく損傷しているふうではなかった。きっと、落としてすぐ拾われたのだろう。あの人混みの中で、普通なら無視で終わるだろうに、少年は「落としたのを見てたんで」とこともなげに続ける。
「ありがとう。取りに戻ろうかと思っていたんだ」
「よかった。捕まえられて。すれ違うところだった」
笑って、少年はベンチに腰を下ろした。服装はいかにも不良といったふうだったが、雰囲気はこんな夜中にシンジュクにいるようなごろつきとは違っていた。
「俺も仕事が長引いちゃって」
なんでこんな時間に子どもが、といぶかしんでいたのがバレたのだろう。少年は言い訳をするようにそう言った。まだ戦争が終わって間もないこの時代、学校に行かずに働いている子は珍しくない。事情があるのだろうから詳しく聞くのも野暮に思えて、俺はそうなんだ、とだけ返した。
「子どもをこんな遅くまで働かせるなんて、労働基準法に違反してるんじゃないか」
「まあ、そうかもしれないっすね。でも、観音坂さんのとこもブラックそう」
「名前」
「ああ、すいません。手帳のなか、見たんで。俺、山田一郎っていいます」
山田少年は、そう名乗ると、なあ、と身を乗り出した。「観音坂さんも、ラップするんすか」
「しないよ。申請書、出さなかったから持ってないんだ。マイク」
中央区から希望者に配布されるヒプノシスマイク、というデバイスがある。俺は仕事で忙殺されて配られた申請書を提出しなかったから、当然もってなどいない。まあ、手に入れようとも思わないが。
領土を奪い合うだとか、チームがどうとか、俺にはどうでもいい話だった。なぜって、そりゃ、目の前の生活が大事だったからだ。それに、リリックで精神を攻撃するだなんて、恐ろしいことだと思ったからだ。保守的だと言われるかもしれないが、俺は音楽は娯楽であるべきだと思っているし、それが人を傷つけるためにつかわれるのはどうにもいいことではないように感じられた。
「やらないのに、リリック書いてるんすか?」
「............見たのか」
「ああ、うん。なんか書いてあったから、つい」
「いいよ。癖なんだ、ただの」
手帳に書き付けたリリックは、特になにか形にしたいと思ったことはない。そんなことをしたって、なにもならないし、何かをなせるとも思えなかったからだ。
もし、ヒプノシスマイクを握って、このやり場のない気持ちを武器にしたって、きっとカカポの絶滅は止まらないし、ホームレスをしっかり見ることさえできないだろう。少なくとも、俺は。
「マイクを握っても、何もできやしないさ」
「俺は、そうは思わないけど」
「そうだね。山田君は、そうかもしれない」
まっすぐそうな目をしている彼は、俺と違って、何かを成し遂げそうな気がした。こういう子が、世界を変えるのかもしれないと、そう思った。手帳を拾ったみたいに、カカポを救って、ホームレスに寝床をあたえるような、そんなことを。
俺は急に彼みたいな善人になりたくなって、ポケットから五千円札をだした。
「君にあげるよ」
「そんな、こんな大金受け取れないっす」
「困ってるんだろう。俺もいいことがしてみたくなったんだ。でも、君のほうが誰かのためになることをするのに向いてそうだから。もし、君が善人なら、これを誰かのために使ってくれよ」
俺から受け取った五千円札を、彼はしばらくじっと見ていたが、ありがとうございます、と言ってそれを学ランのポケットに入れた。
「じゃあ、もうすぐ俺の最寄りにつくやつが来るから」
各駅停車の電車が来ることを示す電光掲示板を見て立ち上がると、山田少年は赤と緑の両目でこちらをしっかりと見て、「もし、」と言った。
「もし、また会えたら。聞かせて欲しいっす。ラップ」
好きだったから。と続ける彼に、俺は、できたらね、と言って手を振った。みずみずしい、少年にあてられたのかもしれない。もしそのときがきたら、挑戦してみるのもやぶさかでもないと思った。足取りは軽かった。俺ははねるようにして、終電に乗り込んだ。
明日もカカポは死んでいて、ホームレスは凍えている。そのどれもがクソッタレな人間のせいだけれども、それを救えるのもきっと人間なのだろう。
彼は善行にあの五千円を使うだろう。そんな確信が俺にはあった。
おわり
あとがき
ワードパレット 21レモン・はねる・視線 のリクエストでした。
レモン要素ないような......。カカポはかわいいです。ちなみにこの五千円は、エッジ一話の五千円というアレです。