ほんしん
さぶど/フォロワーさんからプロットをいただいたもの)
今年の夏は猛暑だ、とネットのニュースが報じていた。雨が降らず、農作物が不作だとか、蝉が大量死したとか。タブレットの画面をスライドすると、毎年盛り上がる花火大会でも、けが人がいくつも出たという見出しが踊る。
嫌な夏だ、とSNSではみんなが言っている。クラスメイトも、今年はなんか嫌だな、だなんて言っていた。
別に、三郎は夏自体、好きでも嫌いでもない。けれど、必ずくる四季の一つなんだから、好きになった方が得だ、とは思っていた。そっちの方が過ごしやすい。どう考えたって。
でも、なんとなくこんな夏は嫌だな、と思う自分も確かにそこにいた。けれど、そういう自分のはっきりしない気持ちはすかなかった。
明確でないのは、三郎は嫌いだ。数式には必ず答えがあって、パズルにも完成形がある。なんとなく、なんていう曖昧な気持ちは三郎の中にあっていいものではない。そう、ルービックキューブをもてあそびながら思った。
・・・
その人とは、カフェで出会った。貸し会議室があり、ワイファイとコンセントが完備されているイケブクロのビジネスマンがあつまるそのカフェはそんなに混んでおらず、三郎の行きつけだった。
「あ」
そう声を出したスーツの彼は、あわてて口をつぐんで、周りを見渡しそれから三郎に軽く会釈をした。三郎も、無言で頭を下げる。なんだか遠くに座るのもはばかられて、一席ぶんだけ離れたカウンターに座った。
そとではざあざあと雨が降っている。久々の雨に、皆は喜んだのだろう。どうせ、梅雨にしこたま降るそれには嫌な顔をするくせに、人間っていうのは単純だ。兄の――そう認めたくはないが確かに年が上なのだ――二郎がその最たるものだと、三郎は思っている。
三郎がルーズリーフと問題集を広げると、すこし離れた彼、観音坂独歩は「勉強?」と聞いてきた。隈の目立つ疲れた顔の彼も、なにやら分厚い本を広げ、ノートに書き付けていた。
「はい。家は二郎――次兄が、うるさいので。宿題は終わったので、簿記でもとろうかと勉強にでたんです」
「へえ、すごいな。俺は、仕事でとらないといけない資格ができて、その勉強だよ」
おなじだね、と言ったきり、会話はなかった。というより、お互いその必要を感じなかったというのが正しいのかもしれない。
三郎も、人と関わるのが得意な方ではないし、この人だってそうだろう。中学生に、しかもテリトリーバトルのライバルに、なんて声をかけていいか分からないに違いなかった。
しばらく、カリカリとシャーペンが紙をこする音と、耳にひっかからないボサノバが二人の間にはあった。一通り解き終わって、採点した模擬テストの結果はどれも百点。三級から始めたのは間違いだったかもしれないな、と三郎は思う。
そこでふと、三郎は顔をあげた。独歩はまだ問題集に没頭していた。雨が似合う人だ。その横顔は、今日のために用意されたものに見えて、三郎は目をそらした。一人がけの席は路面に面していて、バケツをひっくり返したように降り続ける雨が地面に跳ねるのがよく見える。
もう帰ろうか、と椅子の背に引っかけたリュックサックに手を伸ばしたとき、店内の隅っこでネズミが死んでいるのが目にとまった。おおきく太った、汚いネズミだった。店員につげようか、とも思ったが、衛生問題になりそうだと考え直す。三郎は喫茶店を責めたいわけではないのだ。
ああ、気づかなければよかった。見ないふりをして、私物をしまう。あんな、汚いもの。けれど、知ってしまったからにはそれをなかったことにはできない。あんなネズミを見てしまったからにはここにはもう来ないだろう、と三郎は思った。
だって、誰がネズミのひそむ喫茶店に来たがる? 頭の隅で、そんなことを思う。感情はままならない。三郎は逃げるように、スーツの彼に挨拶をすることもせず、喫茶店を出た。
くったりと倒れたあの生き物が目に焼き付いて離れない。それから、三郎があの喫茶店の扉を開くことはなかった。
・・・
猛暑で蝉が死んで、良いこともあった。それは、うるさくない、ということだ。今日は、一郎に頼まれたケーキを取りに、三郎はシンジュクの有名な菓子屋に来ていた。
相変わらず人通りが多いが、そんなのどのディビジョンもだ。受け取ったケーキを、依頼者の家まで運ぶ。それが今日の依頼だった。萬屋ヤマダは、基本どんな依頼であっても断らない。兄から聞いた話では、子供の面倒を見ないといけないので誕生日ケーキを取りに行けないだとかそういう依頼だったように思う。
小さな赤ん坊を抱えた母親と見られる女性にケーキと引き替えに依頼料をもらった。誕生日パーティをするのだ、と彼女は言っていた。ガーデンテラスのある一軒家には、たしかに多くの子供が集まっていた。わあわあと声が上がっているのを、三郎は、わざわざこんな静かな日に、騒がなくたって良いのに、と思った。
それは三郎が静寂とひとりを好む性格だからなのはわかってはいた。なんだか、価値観の押しつけみたいで嫌だった。それでも気に入らなくて、三郎はさっさと住宅街を後にした。
「あ、すみません」
シンジュク駅で、どこか時間をつぶせる場所はないか、とスマートフォンをいじっていると、ふらふらと誰かがぶつかってきた。その声は聞き覚えのあるもので、顔を見れば、やはりそれはこの間出会ったばかりのサラリーマン――観音坂独歩だった。
「あ、あ......。すみません、すみません......、俺、少しぼうっとしてて」
そう言う独歩は、今にも死にそうな顔をしていた。猛暑であるというのに汗もかいていないようで、熱中症じゃないのか? と三郎は思う。げっそりとして、すっかり青白くなっている独歩に、あの日死んでいたネズミとが重なる。もし、この人を放っておいて、何か起こったら、と三郎は案じた。それこそ、気分が悪くなること請け合いだった。常識的に、ここはなにか休憩させるべきだ。
「ちょっと来て」
「え?」
「駄目な理由、あるんですか」
「いや、今日は午後休だからとくにないけれど」
じゃあ来て、と三郎は強引に独歩の手を取って、引っ張った。彼は逆らわず、二回りも若い子供にのろのろとついてきた。空いていそうなカラオケに適当に入って、フリータイムで、と三郎が個室に押し込んで水を渡すまで、独歩はなにも言わなかった。
「山田三郎くん、急にどうしたの」
「三郎でいいです。観音坂さんが死にそうな顔してたから、しかたなくとりあえず休めるとこ探して連れてきたんですよ。絶対熱中症でしょ。水もらってきたから飲んで」
「あ、そんな。俺のことなんかいいのに」
「僕がしたかったからしたんです。どうせ暇だったし」
三郎は、まくし立てるように言う。暇なのは嘘じゃない。だけれど、個室にふたりっきりというのが彼を焦らせた。なんだか、悪いことをしている気分だった。
「すみません、ほんと、俺......。中学生に助けられるなんて、なんて惨めなんだ......。ああ、熱中症は俺が自己管理できないせい、午後休なのに、今社用の携帯電話が鳴っているのも俺のせい......」
独歩は薄気味悪くぶつぶつと言うと、スーツの胸ポケットから黒い携帯電話を出した。ガラケーなんて久々にみたな、と三郎は思う。
「ああ、すみません。はい。営業部の観音坂です」
そのまま、独歩はさっきまでの陰鬱とした顔が嘘のように、はっきりした声で応答しだした。真剣な目に、三郎は、これが大人か、とどきりとする。さっきまでの人とはまるで別人だ。
「ごめんね、ちょっと取引先から連絡があって」
「とくに。それよりゆっくりした方がいいですよ」
「ありがとう。そういえば、三郎くんはどうしてシンジュクに?」
独歩は、カラオケのソファに寝転がるなんてことは決してせず、少し紅潮したほほを濡れたタオルで拭きながら聞いた。
「うち、萬屋なので。今日はその仕事なんです。もう終わったので、暇なんですけど」
「そうか。君たちが、先生が仰っていたツテだったんだっけ......。あのときは本当に助かったよ。本当にありがとう。君たちがいなかったら、俺たちは生きてこの場にいなかったかもしれない」
「大げさですよ。それに、とってきたの僕じゃないし......」
このときほど、二郎をうらやましく、ねたましいと思ったことはなかっただろう。この人の感謝を、あの愚兄は知らないのだから。また、兄からだされた課題としかとらえていなかった自分たちを三郎は恥じた。依頼の向こうには、当たり前に人間の生活があると、自分は知らないで、勝手に競争していたんだから。
「あの、僕もう帰るので」
三郎はなんだか居心地が悪くなって、独歩にそう言って立ち上がろうとした。しかし、その手はきゅっと頼りなさげな手につかまれれる。
「待って」
すがるような声だった。一人にしないでくれ、と独歩は続ける。
「さみしいんだ。これも、依頼になるのかな」
ならない、なんて言えなかった。
・・・
あんなに楽しく話せたのはいつごろぶりだろう、と三郎は、ぼんやり教室の窓をみながら、思い出す。引き留められた後、少し二人は話をした。ボードゲームが好きだ、というと、彼は麻雀なら大学生のときよくやった、と教えてくれた。
そんなに強くないし、もうニコニコしか役は覚えてないけど。と続ける独歩に、三郎はいまはネット対戦もあるということを教えた。本当は、自分とやらないか、と言いたかったけれど、なんとなく勇気がでず言えなかった。
黒板に、文化祭の出し物について、学級委員長がなにやら書いているが、三郎はどうでもいいな、と思った。学校なんてつまらない。だいたい、話のレベルが合うヤツがいないし、友達とよべる相手もいなかった。
――あの人が友達になってくれれば。優しいあの人が。そしたら楽しく過ごせるのに。
三郎は、あの日のことを思い出しながら、そう思った。会いたい、とも。
「でも、だいたい会ってどうするんだ......」
口から声が漏れる。社交性に欠けている自負はあった。それに、優しくされたい、受け入れてもらいたいなんて理由で会いたがるなんて子供くさくて嫌だった。子供っぽいというのは、三郎が最も嫌う表現のひとつだ。なにもできないと言われているようで、好かない。弱い人間なんかじゃないのだ、自分は。
でも、二度目に会って関係が壊れるのを怖がっている自分はたしかに弱くて子供くさかった。すごろくの次の目で、悪い結果がでるのを恐れてダイスを振れないなんていうおろかなプレイヤーみたいだった。
自分のものになったらいいのにな、と悪魔的な思考が、三郎の頭をよぎる。あのひとが、自分のものになったら......。と考えて、そんなの相手の意思を尊重しない、人権を無視した行為だ、と首を振る。
でも、欲しいものが手に入れないなんて、弱さの象徴なんじゃないか? だって、自分はいつだって欲しい情報は手に入れてきた。インターネットの海から探し出すのも、ハッキングして対価にもらうのも、お手の物だ。だれだって丸裸にできるし、なんならFXでもうけた金だってたんまり持っている。きっとあの人の口座にある金額より多いだろう。
三郎そこまで考えて、なんてことを考えているんだろう! と自分で自分を叱責した。
「あ、やば、雨だ」
「ゲリラ豪雨?」
「ええ、傘もってきてないんですけど」
「うわ、そと暗っ」
眺めていた空が急に雲につつまれたかと思うと、ぴしゃん、という雷の落ちる音を合図にざあざあと雨が降り注いだ。不満の声が、登校日で学校に来ていたクラスの生徒たちから上がる。
雨が降っていないときは、はやく降らないかな、なんて言うくせに、都合のいいやつらだ、と三郎は舌打ちをする。
なにが。都合がいいのは、お前もじゃないか。
頭に、自分を責める声が聞こえてくる。僕は欲にまみれた都合がいい人間なんかじゃない、と三郎は反論する。
優しくされて、好きになって、自分のものにしたいなんて思ってるくせに?
せせら笑う自分に、それも違う、と理性的な自分が答える。ただ、あの人と楽しい時間を過ごしたいと思っただけだ。
ぴしゃん、とまた雷がおちる。咎められているような気分だった。欲にまみれた汚い自分を見ないふりをして、逃げるように三郎は黒板に目をやる。出し物、の欄に、演劇『アラジン』と書いてある。
ランプの精がなんでも叶えてくれるとしたら――。自分はなにを願うだろう。
楽しかったあの人との時間の再演を望むだろうか。
それとも、あのひとそのものなのか。そんな簡単な問いなんか、答えは出ていた。
三郎は、具合が悪い、と声を上げて教室からでた。自分に組み敷かれた彼の睨んだ目と、軽蔑の表情がこころに散らばって、三郎のこころをめちゃくちゃにした。
そうしたいんだろ、ともう一人の自分が笑う。お前は欲望なんかじゃなくて、自分は理性なんかじゃなくて――。どくん、と心臓が鼓動する。
いつになく高揚していた。まるで、嵐につられてけものが目覚めたみたいだった。
スガシカオの軽蔑聞きながら書いた。