ひだまり
リクエストの温泉にいくいちどぽです
「世界は思っているより小さいかもしれないが、シンジュクとシナガワの距離は果てしない」と観音坂独歩はそのようなことを言って、すし詰めになった電車にゆられていた。
国の保健医療公社がそこにあって、独歩は営業をしにいかねばならなかった。担当区域からずいぶん外れているし、午前中は今日中に終わらせておきたい仕事があったのだけれども、課長の言うことには逆らえない。独歩が向かわされているシナガワの病院は評判があまりよくない。どうせ行ったって辛辣な言葉を向けられるが行かない訳にもいかないから、俺なんかを派遣してサンドバッグになってこいということなんだろう。
ああ、とうめき声のようなものが洩れる。憂鬱だ。けれど独歩にとって会社といものはそういうもので、嫌でも出されたものをこなしていくルーティン。そういえば、給食に似ている。全部たいらげないと昼休みひとりのこされたあれとおなじものだ。今の小学生にはきっとそういうものはないんだろうけれど、独歩にとっては少なくともそういうものだった。
まるでモンスターを倒してもレベルの上がらないRPG。死なないようにやっとのことで倒して、ささやかなゴールドを手に入れる。裏技なんかなくて、増殖バグなんか使ったらゲームデータはご臨終。そんな感じ。
「独歩って、あんまり言わないけど、これ、って考えはきちんとあるんだよな」
俺っち、独歩のそういうとこ尊敬する、と幼なじみの伊弉冉一二三が何の気なしに褒めてくれたことを、独歩は反芻した。ああ、だから俺は仕事をやめないし、憂鬱でもどんな営業先にも行くよ。
『まもなく、シナガワです。シナガワ――』
アナウンスと、人波に流され、今日も独歩は電車からホームに押し出される。
・・
仕事は、案外はやく終わった。めずらしいこともあるもので、契約さえとれてしまった。そのことを課長に連絡すれば、大きな声で喜んだので独歩はいくばくか気分がよかった。
今日はもう帰っていいぞ、なんて言う調子のいい彼は、どうせ明日になったら理不尽に独歩を責め立てるんだろうけれど、それでもこの一瞬の息継ぎのような休憩をもらえるならそれでよかった。この世の中で生きるのは潜水に似ている。おぼれ死ぬのはいつになるだろうか。その日は独歩にもわからない。
病院からすぐのところで、【とごしぎんざ】のひらがなが光るアーケードが独歩を見下ろしていた。にぎやかな店がならぶ、どこかむかしなつかしい雰囲気のそこに、独歩は吸い寄せられた。普段ネオンぎらつく不夜城で暮らしているぶん、オレンジのあたたかい光がノスタルジーを誘ったのだ。やきとりのにおいがする。閉じたまぶたに、地元の商店街の光景が浮かんだ。
一二三とはじめてお小遣いをだしあって、パピコをわけあった小学生のころの記憶がよみがえる。とごしぎんざに向かうひとたちは、どこかみな足取りがゆっくりだった。ここだけ時間の流れが切り離されたみたいで、独歩の口角もあがる。
「あ、あれ。麻天狼の観音坂独歩さんじゃないスか?」
ぼうっと突っ立っていると、背後から声をかけられて、独歩はあわてて振り返る。「え、ああっ! はいい! お金はないです! ほんとカツアゲとかは......」
「あっ、すんません。そんなおどろかすつもりじゃなかったんですけど。ほら、俺、バスターブロスの山田一郎っす」
ニカッと笑う青年は、そういえば中央区で見たイケブクロ代表の山田一郎だった。独歩はほっとして、「すいません、すいません......」とぶつぶつと声にだして謝った。
トレードマークのスタジャンにジーンズの格好で、一郎は「仕事帰りっすか?」と言った。独歩とはだいぶ体格も身長も違う彼だが、雰囲気はそこまで威圧的ではない。ひとなつこい印象を受けた。そういえば話したことはなかったな、と独歩は思う。有名な伝説のチームの一人で、イケブクロの顔の彼なので、顔はよくよく知ってはいたのだけれど。
「あの、うん。そう。これから夕飯でもと思って......」
「じゃあ、俺と一緒にどうっすか? いい店知ってるんで。俺、観音坂さん――、独歩さんでいいか。とはなしてみたかったんす。あの寂雷さんが選んだメンバーだ~と思ったら、話聞いてみたくて。それに、優勝した強いラッパー......特にあんたの話はぜってえ聞きたいと思ってた」
食い気味に言われ、独歩は戸惑った。山田青年は、にこにこと笑っている。独歩は、彼とバトルをすることはなかった。フツウの青年だな、と思った。なんとなく、とごしぎんざの雰囲気に似合っている。「そんなおもしろいはなし、できないと思いますけど......」
「あ~敬語いいっすよ。独歩さんのほうがだいぶ年上じゃないですか」
「あ、はい。......うん」
「そうだ、食事の前に風呂でもいきます? 戸越温泉、いいっすよ」
「え、あ? あ、はい」
そうと決まれば、いきましょ、と一郎は独歩の手を引いて、とごしぎんざのアーケードをくぐった。手があたたかくて、ひだまりに引っ張り出されるような気分だった。
・・
みたらしだんご、揚げ物屋さん、そんなのれんが連なる商店街を抜けて、ビル型銭湯はそこにある。「あ、今日は男湯は月の湯なんだな」
「月の湯?」
「ああ、ここ、日替わりで男湯と女湯がいれかわるんす。今時めずらしいですけど、このへんはまだH歴以前の文化のこってるんで」
「へえ」
山田一郎が銭湯に入れば、番頭の女性が「あら、一郎君!」と笑って声をかけた。「萬屋さんのおかげで、やってきてくれる人が増えたんだよ。ウェブサイトありがとうね」
「まいど。ここいいとこっすから。今日は知り合い連れてきました」
アットホームな雰囲気に気圧され、独歩はうわずった声で「観音坂独歩です」と名刺を差し出していた。営業でもないのに、変なことをしてしまった独歩を見て、番頭の女性は笑った。「麻天狼のDOPPOくん、本当に会社員なのね。疲れた顔して......、ゆっくりしてきな。タオルとかサービスしとくから」
「あ、ありがとうございます」
タオルと風呂桶をもらい、男風呂ののれんを二人でくぐる。脱衣をして、風呂のドアを開ければ、黒タイルが一面敷き詰められた和風の、落ち着いた雰囲気のある浴室が現れた。まだ日がしずんでいないからか、そんなに入浴客はいなかった。月のように丸いライトがひとつ、ひろい浴室を照らしていて、月の湯と言うのはそういうことか、と独歩は納得する。
「ここ、黒く見えるんですよ。お湯」
「あんまり見ないね」
そんなこと言いながら、お湯につかる。ほう、と独歩が息を出すと、一郎は笑っていた。「ごめんね、おっさんくさくて」
「そういうことじゃないっす。ほんとにフツウだなって」
「俺は特になにもない、フツウの会社員だよ」
「でも面白いし、ラップはすごかった」
「褒められるなんて、光栄だなあ。優勝も、まだ信じられないくらいなのに」
とろりとした湯のあたたかさに心までとかされるように、ふにゃふにゃになった独歩はふふふとほほえむ。冗談でも嬉しい、と独歩が思っているのとは裏腹に、一郎は真剣な顔をしていた。「あんたのラップは筋が通ってる。俺は筋通すためにラップしてるから、普通に筋が通せるあんたはすげえよ」
「俺の普通なんて、頭下げて営業して、残業して終電ゆられて。それだけだよ。それの繰り返し。その年で萬屋なんて経営してる君の方がすごい。俺も一二三も、君たち兄弟がいなかったら、生きてないかもしれなかったんだ。本当に感謝してる」
「俺は――」一郎は、ぼそりといった。
「それができなかったから、今必死にいいやつしてる。って言ったら、軽蔑しますか」
それを言う一郎は、子供の顔をしていた。「二年前に俺なりに助けたりしたひとたちに、失望されたくなくて――されたらさみしいから、まじめにやってるなんていったら」
独歩は気づく。この隣で、湯につかっているのは、まだ19であることに。「あのさ」
「俺は、きっと君をはげますことはできないかもしれないけど。君は、かっこいいよ。実際、普通ってのは楽じゃないし、つらいことの連続で。でも、そうしようとして、一歩を踏み出すのは大事なことだと思う」
独歩はそこではずかしくなって、慌てて浴槽からでた。「あ、なんか。俺みたいなのが、説教くさくて。すいません、でも、闘うのはつらくて苦しいけれど、俺は君が報われて欲しいと思う......なんて。あはは、はは。別のディビジョンなのに、なに言ってるんだろ」
から笑いをする独歩は、見ていなかった。ライト一つしかない暗い浴室で、一郎が、涙をながしていたなんて。いつだって、特別な人間が欲しい一言は凡人が持っていると、独歩はしらない。
・・
戸越温泉を出ると、ぶわ、とおいしそうなにおいがふたりの鼻をくすぐった。400件以上もある屋台があらわれ、独歩の腹がぐう、と鳴った。
「おなかがすいたな」
「そうすね。おでんコロッケって知ってます? これ超おすすめなんで、食べ歩きしましょう」
「おでんをコロッケ? へえ。やきとりもたべたいな。あ、かきごおりがある」
「独歩さん、結構食いしん坊っすね」
二人は、とごしぎんざの雑踏に吸い込まれるように、風呂上がりの心地よさのまま歩く。店で買った肉巻きおにぎりをほおばる独歩を見る一郎の目は、ひどくやさしい目をしていた。一郎は、聞こえないようにほんの小さな声で、「すきだなあ」と言って、手にしたやきとりをくわえた。
あとがき
戸越銀座温泉いったことないです