DOLLY MY LOVE
(みつたい サンプル)
ドリー・マイ・ラブ
注意書き
※幹部三ツ谷×少年人魚の大寿です
※主要キャラクターがガッツリ死にます。また、死のタイミング、状況などが原作と大きく異なります
※カニバリズムの表現もあります
※人によってはバッドエンドです
ドリー(Dolly、一九九六年七月五日-二〇〇三年二月一四日)
世界初の哺乳類の体細胞クローン羊。
スコットランドのロスリン研究所で生まれ育ち、六歳で安楽死させられた。
ふと通りがかった水槽の中の【ソレ】が己を呼んだような気がして、三ツ谷は足を止めた。下半身が鮫の、まだ子供だろう人魚だ。金の目が、射貫くように三ツ谷を睨み付けている。ごぽり、とその口の中から大きな泡を吐き出しす姿に、三ツ谷は呆けたように見蕩れていた。
ああ、もっと良く見たいと手を伸ばすと、バイヤーのオヤジが関西なまりが入った口調でそれを制した。
「止めとけ、兄ちゃん」
そこで、はっ、と現実にかえる。ミュータント専門バイヤーの郡道(ぐんどう)は、消毒液で濡れた手を拭きながらそれはダメだ、と言う。
「なんでだよ、ここにあるのはみんな売りモンだろ?」
「あんたねえ、三ツ谷さん。いくらあんたが東京卍會の人間だっていっても、人間が飼育できるミュータントには限度があるんよ」
郡道はノートパソコンをさわり、「B二九」と書かれたページを開いて三ツ谷に見せた。数字の羅列のあと、何枚ものミュータントやいきものの惨殺写真の画像がアップロードされたページが現れる。
「B二九は気性が荒くてね、縄張りに入った他の生き物を噛んで殺しちまうのさ……。きょうだいも引き離して育てなきゃならん始末でな。人間だろうと、血のにおいを嗅いだらお構い無し。あんた、それだけはやめとき」
郡道が、それより、と今日入ったばかりの美しい女人魚ミュータントを見せたいと三ツ谷に言う。
「女人魚は人気なんだ。生産したと思ったらす~ぐ売れちまう。あんた運が良いよ、見れるってだけで幸運さ……」
だが、三ツ谷はこちらを見てうっそりと笑う少年から目が離せずにいた。ごぽり、と人魚の口から泡がまた溢れる。それが水面にのぼってはじけるまで、三ツ谷は見つめて、ああ、と感嘆のため息をついた。
「いや、オヤジ。こいつが見たい。見せてくれ」
「正気かい? あんた、相当なイカれだな。凶暴だっつったろ」
「イカれちまってなきゃ、半グレの幹部なんかやらねえよ」
「それもそうか」
三ツ谷は自嘲気味に笑った。服飾デザイナーを目指したこともあったが、それは全て遠い昔の話だ。いつの間にか、妹のマナにもルナにも顔向けできないような事ばかりをやるような大人になってしまった。イカれてる? そりゃ、マイキーについていくことを決めたときからイカれてんだ。脳内で三ツ谷は郡道にそう返事をする。
備え付けの小さな階段を上り生け簀の上部へ行けば、ミュータントの少年は素直に自ら顔を出した。水に濡れたふっくらとした頬は、まだ幼いことを三ツ谷に教えた。幼いため日本語での意思疎通ができないらしく、なにかの言葉なのか、それともそういう鳴き声なのかわからないものを口にする。
「気性が荒いんじゃなかったのか?」
噛みつかれたり引っかかれたりということを覚悟していた三ツ谷だったが、存外おとなしい少年に面食らって郡道に尋ねた。「大人しいじゃねえか」
「さあ、ソイツのこたぁあんまりよくわからん。大人しい、まあ大人しいわな。そうやって安心してると仲間を食い殺したりして困るんだわ。かといって無差別に攻撃するようでもないし……。まあ、飼うには向いてないのは確かってことでずっと売れ残りさ。売る気もねえよ。どうせクローンやミュータントなんてしろもん、長生きするもんでもないんだしな」
「フゥン」
三ツ谷は郡道の話を半分くらいしか聞かず、人魚に向かってゴム手袋を付けた手を伸ばす。すると少年はするりと三ツ谷に近寄って、その手に軽く触れた。サメ型ミュータントの手は氷のように冷たい。冷血動物の血が流れているからだろう。そのあまりの冷たさに、三ツ谷の心臓は驚いてどくんと跳ねた。少年はひたり、と触れたかと思うとまた気まぐれに手を離して水のなかに潜り込んでしまった。
「オヤジ、こいつ、いつから売れ残りだ?」
「あ~、知らん。ずっと前からさ。たぶん一番古いんじゃないか? 電力がもったいねえから安楽死させたいんだが、暴れるからどうにもなんねえ。老衰待ちっちゅう感じだわ」
人間の自分勝手で生み出されたというのに、どうにも勝手な言葉だった。そうしてこの少年はずっとこの水槽の中から出られないまま、老衰して死んでいくのかと思うと三ツ谷はいてもたってもいられなくなった。そんな正義感や倫理観なんか、とうの昔になくしたもののくせして、途端にこの売れ残りの人魚が可哀想に思えてきたのだ。
「お前も一人ぼっちなんだなア……」
深いところを泳ぐ少年人魚を眺めながら三ツ谷は「いくらだ?」と聞いていた。
「現ナマでいくらあったら買わせてくれる? どうせ売り物にしないってんで値段もつけてなんかねえだろ」
「いくら? 買う気か? 死んでも知らねえぞ」
「いいだろ。買う。とりあえず三〇〇万手付けでどうだ。あんたにとってのスクラップが三〇〇万になるんだぜ」
ごん、と水槽から大きな音がして、三ツ谷は口を止めた。B二九が、鬼の形相でこちらを見ている。スクラップと言われたのが不満なのかもしれなかった。三ツ谷は「ごめん」と彼に謝って、どう呼べばいいのか分からないと気づく。
「こいつの名前は? さすがに型番以外にあるだろ。スクラップ扱いでこれじゃ、型番で呼んだら殺されちまう」
「ああ、まあ。あるにはあるがな。『タイジュ』ってんだ」
「へえ」
人魚が住むにしては手狭な水槽を泳ぎ、ときおり視線をよこしていたタイジュだったが、「買う」という言葉をきちんと聞いていたのか再びちゃぷんとと水面から顔をだし、品定めをするように三ツ谷を見た。そこで、三ツ谷はきっとこいつを連れて帰ることができる確信を得た。でなければ食い殺されている。
「なあ、タイジュくん。オレと来ないか? オレ、きみのこと気に入っちゃったみたいなんだ」
三ツ谷は、つとめて優しい声でタイジュに言った。タイジュは、黙って三ツ谷に近寄り、それから人には聞き取れぬ言葉で何やら言った。地球外の言葉にも、イルカの鳴き声にも聞こえるそれは、どうやら色よい返事のようだった。
「きみ、それは良いってことでいいか? オレは都合のいいように受けとるぜ」
返事はなかった。代わりに、ピュウと顔に水をかけられる。バイヤーの郡道はおかしそうに、「ああ、兄ちゃん。気に入られてるじゃねえか。やるよ、もう、手付けだけでいい。持ってけよ」と笑って言った。
・・・
「名前、どうする?」
連れてきて早々、買い与えた手頃な桶に不満げに浸かっている人魚に、漢字辞典を見せて三ツ谷は聞いた。
はじめ、大きな水槽がない部屋に連れられたタイジュはひどく嫌がって、三ツ谷の腕に噛みついた。鋭い歯はすぐにスーツの布を貫通し、三ツ谷の腕を傷つける。それでも「しばらくしたら入れるから」と三ツ谷はそのブルーの濡れ髪を撫でてすかし、アジをちらつかせ機嫌をとろうとした。郡道がタイジュはアジが好きだと三ツ谷に教えてくれたのだ。
反社会的組織の幹部がそんなことをするので、三ツ谷の付き人は「やはりやめたほうがいいのでは」と真剣に忠言したが、三ツ谷はそれを頑として聞かなかった。それだけ、この少年ミュータントをいたく気に入っていたのだ。
「タイジュって、呼ばれてたみたいだけど。漢字あったほうがカッケエだろ? 『とうまん』より『東卍』のほうがいいしさ。だから、名前の漢字まずは決めようぜ」
対、隊、体、大……、と三ツ谷が指でランダムになぞると、喋れはしないものの漢字を理解しているのか、その小さな指は「大きい」の「大」を指し示した。
「それがいい? いいね」
隆は嬉しそうに「大」の文字をなぞる。ジュ、は? と目の前で辞典をめくってやると、彼がその指で紙を濡らしたのは「寿」の文字だった。昔はこうして、みんなで当て字を考えたものだった。夢があって、大志があった。それももう遠く、色あせた写真のように三ツ谷を郷愁に誘う。
「大寿。いいじゃん、似合ってるぜ」
隆は甘い声で名前を言って、微笑んだ。大寿は、ムッとした顔をして尾びれで水を隆に向かってかけた。そして、つまらなそうに側のバケツにあるアジをぽいと口に放った。
今の東京卍會は、内部抗争が激しい。マイキーとも、ずいぶんと顔を会わせていなかった。そんな状況下で、幹部クラスの仲間達がばたばたと死んでいくのに三ツ谷はどうにも疲れ果てていた。だから、少しでもセーフハウスに帰ったとき安心できるなにかが、自分の帰りを待っていてくれるようななにかが欲しかったのだ。
だから、わざわざ仕事の合間を縫って、ミュータント専門店なんかに顔を出したのだ。まだ二〇代だというのにまるで、独り身がさみしくて犬を飼いだしたアラフォー男性のようでもあった。
「大寿、『おおきい』に、『ことぶき』か、いいね。いい」
デレデレと三ツ谷が名前をむやみやたらに呼ぶので、うざったそうに大寿は顔をゆがめる。つれない態度だ。だが、生来三ツ谷はそういう方が好きで、女にしても「あたし、男なんて興味ありません!」なんていうのを持って帰るのが良かった。八戒には、「タカちゃん趣味悪い」と批判されたものだが。
相変わらず大寿の機嫌は悪かった。けれど、三ツ谷は喜んでたくさんあるアジのはらわたを取るためにバケツをキッチンに持って行った。
・・・
しばらく飼育――訂正、同居して分かったことは、大寿はアジが好きで、サバは嫌がること。それと、日本語が喋れないわけではないことだ。
「ミツヤ」
ふとそう名前らしき言葉で呼ばれて、三ツ谷は面食らった。まさか、大寿からはっきりとした日本語が聞けるなんて思いもしなかったからだ。
「きみ、口きけたのか」
「覚えル。イヤでモ」
アクセントや抑揚、発音がどことなく危ういものの、大寿はこの日はじめて三ツ谷に向かって、しかも自分の名前を! 口にしたのだ。それは大変嬉しいことだった。
アジをたくさんやらなければ、と以前より広いバスタブにキャリーを付けた簡易水槽に収まっている少年に、三ツ谷は喜びを隠せず近寄った。どこかの水族館でアイスケーキにしていたみたいなのがいいかもしれない、とか、いや食べにくいか、とかそういうことを浮かれて考えた。
「来ルな!」
大寿は、ばしゃんと嫌がるときお決まりの、尾ひれで水をかける行為をした。お陰でまたまた三ツ谷は新しいオーダーメイドのスーツを台無しにした。それでも構わなかった。だって、この少年から声が聞けたのだから。
「来るなって、水くさいだろ。きみ」
「血なまぐサい。死んだ動物のにおいダ」
死臭がする、と言い当てられて、三ツ谷は立ち止まる。さっきまで担いでいた、寝袋の中身のことを思い出した。
最近、死人がやけに多い。別にほかの組織と揉めているわけでもないのに、だ。マイキーの姿は依然として確認できない。黒龍(ブラックドラゴン)出身の奴らは信用できないし、稀咲も半間ももってのほかだ。こういう内紛が多い今だからこそ、三ツ谷がこうしてわざわざ出向く必要がある、と白々しく稀咲が言うが、マイキーが変わってしまったのはお前のせいだろうがと恨めしく思う。寝袋の、まだ生暖かったかつての旧知のことを思い出す。今日死んだやつも、東卍出身だった。死ぬのは東卍からついてきたやつばかりだ。遠い山に埋めてきたというのに、まだその暖かさは肩に染みついていた。
「あ~、ごめん。そんなに? 匂う?」
だがそんなことは大寿には関係が無い。わざと軽々しい態度をとって三ツ谷は笑った。うまく笑えている自信は無かったが、大寿はもうこっちに合せるつもりはないらしく、つんとそっぽを向いて黙ってしまった。もうこのスーツは着れないな、と三ツ谷は濡れたジャケットを脱ぎながら、今日の夕飯のことを考える。
「わかったよ。ごめん、ごめんって。着替えてくるから。そしたら、もっと話を聞かせてくれよ」
返事はない。ぴしゃん、というヒレが水面を叩く音がその代わりだった。
・・・
「肉は食わねえの?」
未だ大水槽の整備は行われない。三ツ谷がわざとおくらせていた。大寿は、たしかに観賞用にするにはつまらない。愛想はないし、凶暴だし、子どものくせに目つきもよくない。だが、そこがかわいいのだ。だからこうしていつまでも家族のように接していたいというのが三ツ谷の言い分だった。バイヤーの郡道は「鑑賞には向かない」と言っていたが、それは凶暴だからではないだろう。
「食わねえ」
「せっかく和牛買ったのに」
スーパーでも高いほうの牛肉だったのに、大寿はアジがいいと言って聞かなかった。三ツ谷はがっかりして、自分で食べるようにしようとパックを見つめた。こんな肉、ルナにもマナにも食わせてやれなかったのに、自分で食べてもしょうがないのだが。
「アジばっかりくってたらアジになっちまうぞ」
「下半身が?」
「アジの人魚になったりすんの? でもそれなら牛たべたら、上半身牛になるか」
「なんねえよ」
頬を膨らませ、少年ミュータントは怒った。ごめんごめんと三ツ谷はなだめる。最初は触れ込み通り無感情のバケモノようであった大寿だったが、三ツ谷と接するごとにどんどんと人間のこどものようなそぶりをみせるようになった。三ツ谷がべろべろに甘やかしているせいなのか、ただペット用ミュータントの役目通り、人間が喜ぶようにそうしているのかは知れないが。
「そもそも人魚って、水中でどう呼吸すんの? オレ知らないんだけど」
「教えねえ。普通、鳥や犬猫に人間が自分の歩き方を教えたりするか? 呼吸も? そんなことねえだろ」
「アジあげるからさあ」
「アジで動く猿だと思ってるのか!」
三ツ谷がぶらんとぶら下げたアジをぶんどって、大寿はつるりとそれを飲み込む。まんまと釣られてるじゃん、と三ツ谷は言わなかった。まだこどもなのだ、あまりプライドを刺激することは言わない方が良い。
口からアジのしっぽを出したまま大寿は水槽からぬめる下半身を外に出して、エラをめくって見せた。赤い肉がてらてらと光って、三ツ谷はなんとも形容しがたい感情に襲われる。ただの呼吸器だというのに、その仕草がどうにも艶めかしい。
「エラがあるだろ。水中ではエラ呼吸」
「陸だと肺? カエルと同じなんだ。あ、いや、カエルと一緒って言ってるわけじゃねえぜ。大寿、いや、怒んないでって」
「せっかくエラを見せてやったのに。三ツ谷なんか嫌いだ。次からはアジじゃなくてエイでももってこい。晩酌で食ってるだろ」
「エイヒレ?」
「うまそうだから」
後で知ったことだが、ホホジロサメはエイをよく食べるらしい。大寿はホホジロサメの人魚なのだろうか? 三ツ谷にはよくわからなかったが、強そうで彼らしいと感じた。
・・・
「B29の経過は良好ですね」
定期検診で、ミュータント専門医の佐古田(さこた)が血液検査の結果を見ながら三ツ谷に言った。
「どれくらい生きられンの?」
「まあ、良好とは言っても年は保たないでしょうが」
佐古田は淡々とパソコンのモニタを見ながら話を続ける。「元々ミュータントなんて長く生きないですからね。ハムスターより短命です」
「そりゃ、笑えねえ話だな」
「命の話なんて笑えた試しないですよ。命を金に変える仕事をしてるんですからね」
人間の知識欲のために遺伝子組み換えを繰り返されて生まれたバイオミュータント産業はここのところ斜陽だった。東京卍會も、はじめは九井が投資していたようだったがもう撤退している。そんなものに手を出しているということがどういうことか、わからないほど三ツ谷は馬鹿ではない。
「冬は越せませんよ。保ってクリスマスまで。それまでに細胞が崩壊して死にますね。安楽死させたほうがいいですよ、苦しいだけですから」
「それくらい生きれば充分だワ。それでもオレの家族だ。安楽死はまだ考えさせてくれ」
バイオミュータントは、ファンタジーの存在ではない。たしかにあっと驚くような、刺激的な技術だが、大寿は本物の人魚ではないし、不老ではあるが不死ではない。
「人間に懐くように、そうプログラミングされたAIのようなもの。そういう存在だと思えばいいんですよ。あなたが勝手に家族だと思っているだけで」
「ひどいことを言うなあ」
三ツ谷は肩を落として、病室の椅子に座り込んだ。こんな会話、もう続けたくなどなかった。別室にいるであろう大寿にも絶対に聞かせたくない。
「あんなの、人間とサメのパズルだと思えばいいんですよ。悲しいですけどね」
「大寿をバカにするのはやめろ」
「バカにしてなんか。すみません。あの個体は非常に賢いですね、他の個体だったら考えられないくらいに人間のことを学習している……」
「ジュラシック・パークでも目指してるのか? あの映画の結末を知らねえわけじゃねえだろ」
マッドサイエンティスティックなことを言い出した佐古田を三ツ谷は睨み付けて、席を立つ。とにかく、全てはクリスマスまでに行わなければならないことは分かった。
・・・
「大寿くん、見て」
「なんだ?」
大水槽の整備はまだ進んでいない。大寿ももう諦めた様子で、日中は少し大きめの水槽にちゃぷちゃぷと浸かって過ごして、夜はたまに三ツ谷のベッドに勝手にあがってタオルケットにくるまっている。
「エイの干物!」
新手のUMAにも見えるそれを出してやると、大寿はタオルケットを抱きしめたまま、あからさまに嬉しそうにして「うまそう」と頬を赤らめた。
「大寿くんが欲しいって言ってたから、買いました」
「やるじゃねえか三ツ谷」
ひらひらと犬の尻尾のように尾びれを振って、大寿はよろこぶ。ホホジロサメの主食を食べるということはやはりホホジロサメらしい。サメのすべて、と書かれた絵本が三ツ谷のベッドに転がっていた。最近三ツ谷は寝る前にそれを読みきかせている。
「そのままじゃ硬いし、ふやかす?」
「ふやかしたら味が落ちるだろ。別に硬くても平気だ」
ずらりと並んだギザギザ歯を見せつけて、大寿は言う。三ツ谷は大寿に干物を与えると、自分の分のエイヒレを卓上コンロであぶり始めた。
「いいにおいだな」
「大寿くんも食べる? エイヒレ。あーでも、このままだとやけどしちゃわね? 冷やすわ」
三ツ谷がふうふうと息を吹きかけ、冷ましてやる。大寿はばりばりと干物をやりつつ、それを待っていた。こういう時間が、もういくら続くかわからないのが三ツ谷はさみしかった。クリスマスまで時間が無い。
・・・
三ツ谷は「それ」に抵抗しなかった。とうとう自分の番が来たか、という運命の巡り合わせがやってきたような安堵感さえあった。
奇しくも、大水槽の整備が終わった日のことだった。気がかりなのは、大寿がきちんと食事をとってくれるか、ということだけだった。
・・・
その日はなかなか三ツ谷が帰ってこなかった。大寿は雪がしんしんと降る外を窓から眺めながら、帰るのを待っていた。地球温暖化でなかなか見ることができなかったホワイト・クリスマスが近づいているとテレビでニュースキャスターが報道している。
そして、大寿は自分の体がもうどんどんと動かなくなっていっているのも最近自覚していた。せっかく整備された大水槽のなかでも泳ぐことができず、その底でぐったりと死にかけの金魚のように浅く呼吸をしていた。用意されたアジも、どうにも食う気になれない。寿命が近いのだ。
そこで、ニュース速報が入る。焦った様子でキャスターがなにごとかを言っている。殺人、だとか、抗争、だとか聞こえてきたが、どうにも聞こえづらい。外にドタドタと誰かがやってくる音がうるさかったからだ。三ツ谷か、と反射的に大寿は期待するが、どうも外には複数人いるらしい。
三ツ谷ではないな、と大寿は気づいて、けれど動く気力がなくただぼうっとしていた。三ツ谷だったらよかったのに、と未だ開かぬドアを見る。寂しかったわけではない。ただ、自分がもう死ぬなら一応の「飼い主」としての責任をとってほしかっただけだ。
だから、それがうごかなくなって水槽にどぼんと落ちてきたときは驚いた。
「三ツ谷!」
口から声にならぬ声が漏れる。リトルマーメイドに出てくる王子のように、突然三ツ谷は大寿の居る水槽に放り込まれた。は、と目を見開き、動きづらい体を起こすと、外には黒服の男が何人かいて、こちらを見ていた。
「三ツ谷、三ツ谷」
大寿は、沈んできた彼に触れ、声をかける。しかし、目を開くようすはない。それどころか、普段触れるとやけどしそうになるほど熱い恒温動物の肌が、びっくりするほどに冷たい。
――死んでいる。
かっ、と大寿は頭に血が上り、三ツ谷の大きな体をかき抱くと、外に向かって歯をむき出しにして怒った。しかし、黒服たちはもう大寿がこどもだからと舐め腐っているのか、笑うばかりだ。
ああ、殺してやる、殺してやる。完膚なきまでに、跡形もなく、殺して、血の一滴も残らぬようにしてやる。大寿の怒りは、血潮を駆け巡って、しかし自分に残された時間が少なく、弱り切っているために発露できなかった。
だから、もう、こうするしかなかった。大寿は、鼓動を止めただの肉袋になったかつての人間のくびに顔を埋め、そして。
食う。食う。食う。骨を折る。ばきん、と音がする。血が、水槽を真っ赤に染めた。食って、食って、食った。ごくん、と肉を飲み込むたびに、力があふれる。自分の中の細胞が、書き換わる。まだ足りない。まだ食わなければ。
半分ほど食ったところで、大寿は自分の体が熱くなるのを感じた。半身を失った三ツ谷を抱えたまま、大寿は水槽の上からずるり、と体を出す。
「おい、どういうことだ。食わして隠滅するんじゃないのか」
「知らないですよ」
黒服は、急に慌てた様子で大寿に拳銃を向けた。音もなく発射された弾丸が、大寿の肩を射貫いた。だが、大寿は止まらない。尖った爪で拳銃男の肉を切り裂き、腹から綿を出してやった。ごぽり、と男は口から血を吐いて動かなくなる。
浴びた返り血をぺっ、と吐き出して、大寿はずるり、ずるりと下半身を引きずってもう一人の男に近づく。
「もしもし、稀咲さんですか。もしもし。あの、死体処理失敗です。とんだバケモノですよ、助けてください! 応援をよん、呼んで、ああ、あ、来る。来る――」
・・・
「あの、兄のお知り合いですか」
葬式にやってきたものの香典も出さず受付から動かない巨躯の男に、ルナは声をかけた。男はしばらく黙って周りを見ていたが、ここで金を渡すのだとはじめて理解したようすで財布から何枚かの紙幣をルナに渡した。
「袋がなくてすまねえ」
「ああ、いいんです。ありがとうございます」
「まだ慣れてなくってな」
男はそれだけ言うと、杖をついて歩き、去ってしまった。葬式自体には出ないようだった。
ルナは、その背中に兄を見た。髪も目の色も体格も、兄とは似ても似つかないものであったのに、そこに確かに兄がいたという気がした。ルナは、受付をやめて男に駆け寄る。
「あの、すいません。えっと、あの。香典、名前と住所を」
「まだあるのか。人間は大変だな」
男は名乗った。ルナは、その静かな響きを聞いている。
終
あとがき
二冊目のみつたい本です。十月の本なのに、使いたい装丁のせいで八月に脱稿を強いられてしまいました。リアルに三日で書きました。もうこんな無茶はしたくないです。裏テーマは人魚姫とジュラシック・パークとヘルシングでした。無茶苦茶をやるのが楽しかったです。
ミュータントやクローンについて詳しくないうえにリサーチする時間がなかったので、なんか変でも許して下さい。大のSF好きなのですが、自分で書くとなると難しいですね……。
三ツ谷の細胞で足を得て、大寿が生きていくというラストに持って行きたくて、それだけのために書きました。
短い話ですいません。精進します。
それでは、次回の本で。
奥付
サークル ネコチャンホンポ/トミー
発行 二〇二二年十月三十日
連絡 needelechoochoo@gmail.com
印刷 プリントオン様