やってほしくなかった
(雛河+宜野座)
無我夢中だった、と言うしかない。初めて現場でその引き金を引いたとき、雛河には執行対象の犯罪係数がいくらで、起動したのが果たしてパラライザーだったかそれともエリミネーターだったのか認識する余裕さえ与えてもらえなかった。その場には犯罪者と自分と、地面に転がった人質しかいなかったのだ。躊躇うこともできず、ただ指を押し込んだ。それだけだ。照準はきちんと合わせるように指導は受けていたものの、ほとんど反射的に目を固く閉じてしまっていたので、対象の断末魔と何かが弾けるような音を聞いてやっと状況を理解したというありさまだった。
はじかれるように目を見開くと、そこは血の海だった。起動したのはエリミネーターだった。対象の犯罪係数がそれほど高かったということだ。出動すること早数十回。そのうち凶悪犯罪は数件。この世の終わりのような光景を見るのはこれが初めてではなかったが、雛河がその手で執行したことはなかった。監視官であるというのに最前線に飛び込んでいく上司や、優秀な先輩執行官たちが事件の幕引きをしていたからだ。雛河はいつもその背中を見ながら、サポートをするのが常だった。自分でもそれが合っていると思っていた。けれど今回は自分がやったと、反動に痺れた両手が証明していた。一気に血の気が引いて、雛河はその場にへたりこんだ。べちゃりと手に生ぬるいものがついて、息が止まる。それが何かは考えるまでもなかった。
間に合わなかった。おかしな話ではあるが、宜野座がそこにたどり着いたときに感じたのはどうしようもない無力感であった。「雛河くん!」という一緒に駈け込んで来た常守監視官のかけ声にはっとして、そちらは彼女に任せて宜野座は蒼白な顔で震えている人質の安全確保を優先した。ひどい顔だ。すぐ傍で、犯人と言えど人間がはじけ飛んだのだ。かなり色相は濁っていることだろう。しかし被害者は被害者だ。何の罪もない。常守がそうするように宜野座はあえてドミネーターを向けなかった。そもそも執行官である宜野座は許可なく使用することができないのだ。新任の監視官ならいざ知らず、常守がそれを許可するとも思えなかった。
人質となったのは17歳の少年だった。道を歩いていたところを、犯人にナイフで脅されさらわれた。監視カメラの映像で見せられたときに感じた気の弱そうな雰囲気が、いざ目の前にすると雛河に重なって見えて胸が痛んだ。彼は執行官であって学生ではないし、自分と同じく潜在犯だ。守られるべき一般市民ではなく、不要の烙印を押された人間。もし執行官でなければ、即刻施設入りか排除対象になるかだろう。したがって二人を同列に扱うのは一般常識に照らし合わせてみれば異常なことである。一方は尊重されるべき存在で、他方は適正があるうちは生きていることを許される猟犬だ。
しかし宜野座は少年にいくつか質問をしながら、ちらりと雛河の様子を伺った。雛河はもう自分の足で立ち上がっており、思っていたよりは悲惨なことにはなっていなかった。それでもやはり頼りなさげな背中が気がかりだった。少年の、恐怖に震える声やとぎれとぎれに吐かれる息が宜野座にそうさせた。雛河がやるべきじゃなかった。最前線にいるべきは自分であるべきだと思っていた。常守監視官はすべての執行官を平等に扱う。年齢も性別も関係なく仕事を与え、また彼女自身に対してもそうだった。公正衡平であること。それが彼女なりの正義であり、部下への義理だ。したがって雛河が分析官ではなく執行官である以上、こうなる日が来ることは宜野座も承知していた。けれども血だまりの中、力なくへたり込んだ雛河の背中を見てしまったら、どうにもやるせなくてたまらなかった。
搬送用の車に乗せるため、後から追いついてきた東金とともに少年を立たせ、歩かせた。歩くというよりは引きずるような形になり、経験及び感覚的に宜野座はこの少年の社会復帰は難しかろうと理解した。後部座席に放心状態で座っている少年を見送ると、案の定東金が「あれはもう駄目だろうな」と零した。そうだろうと宜野座も思った。
「人が目の前で肉塊に変わるんだ。多感な時期には相当なダメージだろう」
「そうだな」
成人してはいるものの精神が繊細な雛河もそうだろうとは言わなかった。あいつは仕事をしただけだ。少なくとも客観的に事実だけをとらえるなら何の問題もない。そうさせたくなかったのは単なる宜野座の気分的問題だった。
事件の結果として、雛河はしばらく仕事を休んだ。あれから元々のうつ状態が悪化したらしく、カウンセラーの指導が入ったようだった。
「ショックだったみたいですよ。誰しも初めはそうだとは思いますが」
霜月監視官は一時的に空席になったデスクを見やると、淡泊にそう言った。彼女はかつての宜野座がそうであったように、極めて模範的な監視官である。潜在犯である執行官との関わりはなるべくもたず、自分の色相の安定に努めている。コミュニケーションを取りづらい相手だが、監視官と執行官としての通常の在り方だと思い、宜野座は特に気にしてはいなかった。きっと昔の宜野座も執行官にとってはそうだっただろう。
「雛河執行官は報告書を書ける状態ではないでしょう。宜野座執行官、あなたに彼に代わって報告書を作成することを命じます。分かる範囲で良いので」
「はい、監視官」
「出来上がったら私のアドレスに送信しておいてください。まとめて上に提出しますので」
宜野座は頷くと、自分のデスクに向き直った。