カルテ
(探納 おかロル ようすがおかしい)
「先生は、僕になんで鍋をかぶっているのって聞かないね」
隔離病棟の一室で、白いベッドに座った縞模様のパジャマの青年は、ロールシャッハ医師に聞いた。医師は、彼の精神テストの結果をみながら、「だって、キャンベルさんがかぶっているのだから、かぶっている限り、鍋だって帽子じゃないですか」と淡々と返した。
「そうだね先生。コレがないと不安なんだ。いつ、誰かに僕の財産を奪われてしまうのかって……、それに、この天井だっていつ壊れるともしれないしね。僕は準備しているんだ。準備さえできれば、そうすれば完璧になんだって対処できる。僕は準備してる、いつだって」
「あんまり気をもまないことですよキャンベルさん。強迫観念にとらわれることはあまりよくありません。今日の分の薬です。不安気分障害を和らげるものに変えておきましたから、すこしは気が晴れるでしょう」
そう言って、『ロールシャッハ医師』は彼に黄色いあめ玉を渡した。それが薬なんかではないことは一目瞭然であったが、鉄鍋をかぶったおかっぱ頭の男――ノートン・キャンベルはありがとうと素直に受け取った。
ノートンは、この医師が本当の医師でないことを知っていた。彼の「本当の」担当医はジョゼフという医師だったが、彼が言うにはロールシャッハ医師はただの妄想性障害の患者だということで、治療をしなければならないというのに、時折勝手に逃げ出して回診を始めるのだとか。
本当の名前はイソップ・カールというらしい。ノートンが盗み見た彼のカルテには、ロールシャッハではなくそう書いてあった。
「ほかの先生は、君のことを患者だというけれど」
「いいえノートンさん。それはささいな行き違いなんです。僕は精神科医だって、免許もちゃんとあるのにみんなが信じてくれないのです」
そう言ってロールシャッハ医師は、イソップ・カールと書かれた診察券を出して眺めた。彼にはそれが医師免許に見えているらしかった。
ノートンは、医師のことを気の毒に思っていたが、傷つけるようなことは言わず、毎回毎回やさしく「君が医者だというなら、医者でいいじゃないか。僕の帽子となにもかわらないよ」と慰めていた。
「先生、それはみんなが間違っているんだね。そうに違いないよ。先生が正しいのに――僕らの見ている世界の方が真実なのに、みんな本質を見ようとしていないだけさ」
おかっぱの髪をゆらしながら、ノートンは小首をかしげてイソップを見た。
「間違ってることはたださないといけないよ先生。君が正しいって、僕らが正常だって、知らしめるべきだよ。そうだろ?」
イソップは、濁ったグレーの瞳でノートンの手をとり、じゃあ、別の病院に君を転院させて、もっとちゃんとした検査を僕が受けさせてあげますね、と返した。
「僕がいい病院を知っているよ先生、行きたいんだ。そこなら絶対安全だし、君もずっと楽になる。ならなくちゃ、先生。僕はね、鼻が利くんだ。先生はもっと自由になるべきだってそういう、においがするよ。いいにおい。だからはやくねぐらにしまっとかなくっちゃ……しまっておかないと、いつなんどき誰かに盗られるか不安だよ先生……はやくね、そうはやくしないと、不安でしかたがないんだ」
「不安なんですか、キャンベルさん。今日はいちだんとお疲れですね。よく寝てください」
ブツブツと強迫観念に囚われうつむいていつものように何をいっているのかよくわからないことを繰り返すノートンに、ロールシャッハは今日はもう診察を終了するむねを告げて、回診へと出掛けた。
「イソップくん、イソップくん……。いいにおい。おかねなんかよりずっといいにおいだ。はやくしまわないと。あそこにもどらないと……」
・・・
【ある探偵の手帳に書かれたメモ】
病院から患者が2名脱走したとのこと。行方がわからず捜査は難航している。
脱走患者はノートン・キャンベルとイソップ・カール。
以下、聞き取りのメモ
探偵さんお久しぶりです。ああ、はい。はい。そうなんです。ご相談の件で。
裏の山にどうもなんかが住み着いたみたいで。でも、バーにくる人はみんな飲んだくれだから信用しないでちょうだいね。
そいつはデカいモグラなんだ、ってみんな口々にいうのよ。やけに鼻が利いて、縄張りに入ってきた通行人から金目のものをとってくって話。
そう、そうなの。怪我人はいないのそれが。
モグラが出たあとは、かかならず医者だっていう男が手当てしてくれるらしいんだけど、そんな山奥にいるわけないでしょ? 廃鉱山よあそこ。むかしは栄えてたみたいだけど、事故以来めっきりで。
え? 鉱山に行くって? やめたほうがいいと思うけど、まあ、止めないよ。はい、ありがとうね。50フランだよ。
おわり
あとがき
なんぞこれ