パラダイス・オルタナ
(さるいお)
依央利の帰りが遅くなることなんて同居をはじめてから一度としてなかったので、慧はずっと居心地が悪かった。依央利は国立大に通っているが、慧がたまり場から帰るころにはいつも家にいたし、食事を作って待っていることも少なくなかった。
朝、慧より早く起きて家事をし、家事をして慧より遅く眠るのが依央利の常であったので、彼が自分の個人の時間をどう使っているかなど、慧が知るよしもなかった。詳しいことはよく分からない、調べようと思ったこともないが、依央利の通っている大学はいわゆる「いいところ」であったようなので、勉強が必要だろうに、依央利が慧の前で自分自身のためにがんばっているところを見せることはなかった。それは依央利の生来の秘匿主義に由来しているのだろうから、慧もあまり依央利に大学のことを聞くことはなかった。
腹が減ったな、と自分の金で買ったわけでもないソファにぼんやりと寝転がって、慧は考えた。その日、作り置きすらなくカラッポの部屋に放り出された慧は、だからといって自分でどうこうという気分にもなれず、ただ使い古した音楽プレーヤーから流れる古いロック・バンドのボーカルのしゃがれた歌声を聞いていた。
・・・
「さるちゃん、こんなところで寝ちゃだめでしょお」
それから依央利が帰ってきたのは、深夜零時をとっくにまわったころだった。ひたひたという足音が聞こえて、いつもよりだいぶん甘い声が慧の頭に落っこちてきたところで、慧は自分がうたた寝をしていたことを知った。
ダメと言われて黙っている慧ではないから、即座に、ほぼ本能的に、慧は「いいだろ、俺の勝手だ」と口にする。依央利はヘラヘラと笑って、じゃあ一生寝てなよ、と言う。普段依央利はそういうこと――慧の反抗心を煽るようなこと――を進んで言うタイプではないので、慧はいやだな、と思った。
言われたのが嫌なわけではなく、そういう細かな気遣いができないくらい依央利が酔っ払っているのが分かって嫌だった。慧だって四六時中怒っていたいわけでもないし、依央利もそれは了解している。だから二人が喋るとき、依央利はわざと言葉を選ぶきらいがあった。迷惑になっていると思ったことはない。依央利はそういうことも「負荷」として楽しめる人間だと、慧は知っている。
なのに、それができないということは相当酔っていることの証左でしかなかった。
「じゃあ起きる。っていうか、こんな遅くまでどこいってたんだよ」
「ん? いいじゃんべつに。ああ、ごめんねお腹空いたでしょ、あり合わせだけどなにか作ろうか?」
スリッパを履いてなんでもないふうにキッチンに立つ依央利に、慧はなんだよ、と思う。別に、で済まされることなのか、とも思った。自分はこんなに待たされたのに、と横暴な亭主のような気持ちにさえなった。食事で機嫌取りできる人間だと思われているのか? そんなわけないだろ。分かってるくせに、白々しいな、と不満になる。
だがそんなことより、明らかに酒臭くて、赤くなった顔や、ぜんぜん気に食わない知らない香水の匂いがするのが気になった。絶対に飲み会かなにかだ、と慧は確信するが、互いに不必要に干渉しないところが二人の関係が続いている理由だとも分かっていたので、どうも言えなかった。
「なにがいい? やっぱり夜だから、カロリー少ないのがいいよねえ」
そういう依央利に、べつだん変わった様子はなかった。ただずっと気に食わないかんじがあった。自分の知らないところで、依央利がただちょっと、ほんの数時間、自分になにも連絡なしに知らない人間と過ごしてきたことがなぜ今更こんなにも嫌なのか慧は分からなかった。
「なあ、いお」
「ん~?」
慧はしばらく黙った。依央利は相変わらず普段と変わらない様子で冷蔵庫を覗いている。そういえば、自分は依央利がいなければ冷蔵庫すら見ないのか、とそこで慧は気づく。
いやそれは依央利のせいだろ、と慧は誰に対してなのか不明な言い訳をする。依央利が、慧の過ごしやすいように、慧が生きづらくないようにって、そうやって何年も前からやってきたんだし。俺の怠慢とかじゃないだろ、と慧はつい最近自分を振った女のことを思い出す。
ケイって、あたしといても楽しくないでしょ。そんなことを言われた気がする。楽しいか楽しくないかで言えば、正直楽しくなかった。別に、言いよってくるから付き合っているけれど、必ずケンカになるし、デートだってマトモにできないし。楽しくないでしょ、と言われたら、楽しい、と必ず言うしかない慧であったけど、心からそうであるかは違った。そういう内心の問題は、慧の人付き合いを難しくした。
「……なんでもねえ」
「そう? あー、夜食、おでんにするね」
「夜から仕込むのかよ」
「じゃあ、雑炊と味噌汁とおひたし。でも簡単すぎるでしょ。楽ちんレシピって、僕やなんだよね」
「夜食なんて簡単でいーだろ、別に」
飲んできたんだろ、とはすんでで言わなかった。なんでこんな簡単なことも聞けないのか、らしくもなくなにを気を遣っているのか慧にはわからなかったが、どうも言えなかった。これは、依央利は「そう」じゃないのか、という恐れや落胆のようなものなのかもしれない、と慧は思った。
もし、自分が「飲み会は楽しかったか」と聞いて、依央利に「楽しかった」と答えられたら、慧はがっかりしてしまう。依央利も自分と同じで「そう」じゃなかったら、自分がみじめだ。
子どもの頃から自分にべったりくっついて、「だって、さるちゃんじゃないとつまんないもん」と言う依央利がどうにもウザかったのに、いつしかつまんないのは自分もだったな、と慧はため息をつく。
いつの間にか音楽プレーヤーの表示は、ダサくて聞くのをやめたオルタナティブのジャケットを表示していた。慧はその電源を切ると、「寝る」とだけ言って逃げるように自分の部屋に引っ込んでしまった。