それでも
(ミルグラム 1006)
「ほんとはね」
マヒルはこけた頬が目立つ顔をコトコに向けて、一審のころにはついぞ見せたことのない苦い笑いを浮かべて言った。
「コトコちゃんとは、仲良くなれるのかな? ちょっと不安に思ってたの」
「勝手に思われても困る。それに、今の私は看守エスの代行者だし、近寄るべきじゃない」
正論だ。コトコはマヒルを殴り、蹴り、骨を折った。そんな相手と話そうとするなど、ふつうの人間のすることじゃない。孤立したコトコのところにたった一人車椅子でやってきたマヒルに、コトコは怪訝に思う。
「はじめは……うん。そう思ってたし。近寄るべきじゃないっていうのも分かってた」
「ならはやくシドウのところに戻るがいいさ」
「違うの。あのね、はじめて話したときのこと覚えてる? スタイルいいね~って」
別に、そんな気にすることでもない会話だったはずだ。コトコは言われても、はじめて話したときのことなど少しも思い出せない。それよりも、殴ったときの感触や、足を折ったときのぼきん、という音の方が耳にこびりついている。コトコとマヒルはあくまでも加害者と被害者の関係で、執行人と罪人の関係だ。友人なんかじゃない。なのに、マヒルは不器用に笑って、また言う。
「あのとき、マヒルね。ほんとうにコトコちゃんとお友達になりたいなあって、思ってたの」
「今更じゃない。なれるわけがない。またぶたれたいの?」
「だったら、痛くても、辛くても、あの時コトコちゃんが話したことはさ。楽しかったな~っていうのもね、嘘じゃないって思ったら、じゃあ、私が避けちゃだめだよねって思って……」
マヒルは、ゆっくり、ぽつぽつと話した。要領がえない、とコトコが苛ついていると、マヒルがコトコの手に自由な方のそれでゆっくりと触れた。
「私ね、コトコちゃんと、ただ、話したいの。罪とか、そういうの関係なく。ダメかな」
「ダ、ダメとかそういう以前に、私があんたにしたことを忘れたとは言わせないよ」
あたたかい手のひらに、コトコは戸惑う。マヒルの思わぬ態度に、いっそう眼光をつよくしてコトコは彼女を睨み付けた。だが、マヒルは怯まない。
「忘れてないよ。でも、いいじゃない。好きって気持ちに、理由なんている?」
マヒル、コトコちゃんのこと、好きよ。その言葉はコトコの頭を、がん! と殴りつけるようだった。動揺してものが言えないコトコの手を、マヒルはぎゅうと握る。
コトコはそれだけでその場から逃げられない、という気持ちになった。手負いの、ぼろぼろの女に手を握られているだけなのに、鎖に繋がれた犬のようにコトコは動けなくなる。
「ねえ、だめかな。ダメだったらいいよ」
マヒルはまた、怪我で引きつった顔にやわらかな笑みを浮かべて言う。ダメだ、とコトコは思った。この女とこれ以上会話をしてはいけないと感じる。そうでなければ、自分が自分でいられない、とも。
「好きだよ、コトコちゃん」
「あなた、ほんとうに馬鹿だね。私はもうあなたと話したくない。じゃあね」
好き、という言葉をもう聞きたくなくて、コトコはようやくマヒルの手を振り払ってその場を去った。
マヒルの顔はもう見たくなかった。次彼女が赦されなかくても、執行できる自信がなくなりそうだったからだ。この自分が、とコトコは情けなくなって、誰も見えないところでうずくまって、「ああ」とため息をついた。
おわり