スタンド・バイ・ミー
(ひふど 寄稿作品)
春の嵐が一二三の全てを奪い去ってしまった。
風が強い日だったと思う。今日は早く帰れそうだと嬉しそうにはにかんで家を出て行った独歩は、それきり家に帰らなかった。
死んだんじゃない、と思いたかった。すぐさま警察に捜索願いを出したが、見つからないということで捜索は早々と打ち切りになって、一二三は空っぽの家に一人放り出されてしまった。
さよならが言えたらどんなによかっただろうか。忽然と消えてしまった幼馴染の靴を持って、一二三はうつくしく光るネオン街を窓から見つめた。このどこかにいてくれたら、と思った。思いたかった。
一二三のそばから独歩が消えたとて、事情を知らぬ女たちは一二三を変わらず求めた。だから一二三は相変わらず注がれる味のしないシャンパンを笑顔で飲むしかなかった。家では誰も待っていやしないのに。薄っぺらいビジネスライクな恋愛もどきの享楽なんかよりも、一二三が欲しいのはただひとつ、独歩のあの不器用なやさしさだけだった。
「おかえり」のない冷えきった自宅に、幾多の愛に傷つけられた一二三はくたくたになって帰った。電気をつけるのも面倒で、ジャケットを放り投げるとそのままソファに倒れこむ。
このまま、自分はこんな味気のない生活を送るのだろうか。これからの独歩のいない人生など、死ぬのと同じのように思えた。それでも日はまたのぼる。独歩のいない部屋で浴びる朝日は、これっぽっちも美しくなかった。とてつもない不安に襲われて、でも指のいっぽんも動かせずに一二三は朝日から逃げるように目を閉じた。目が覚めたら、幼馴染みが変わらず笑って「おはよう」を言ってくれないかと現実から逃避して。
・・・
遠くで自分を呼ぶ声がした気がして、一二三は目を覚ました。しかし起きたところで誰かがいるわけがなく、落胆するばかりだ。ベッドから出てシンとしたリビングを抜け、相変わらず中央区の検閲のかかった面白味のない朝刊を求めて玄関のドアを開ければ、そこには朝刊を持った独歩が立っていた。
「ど、独歩⁉」
驚きと嬉しさ、そして少しの怒りがどっと胸に押し寄せて、一二三は泣きそうになりながらその痩せた体を抱き締める。どこに行ってたの、俺心配したんだよ。そう言う一二三に、独歩は舌ったらずな声で「ひふみ」と呼び掛けた。
「うれしい? ひふみ」
独歩は暑苦しく抱き締めてくる一二三に悪態をつくでもなく、失踪してごめんと謝るわけでもなく、ただ無垢なこどものようににっこりと笑った。
「うれしいかって、そりゃうれしいよ。こうして帰って来てくれただけで、俺は……」
「かえってきた?」
「独歩ってば、さっきから変だぜ。もう、朝ごはんにしよう。おまえがいなくちゃ、作っても寂しいばかりなんだ」
独歩は分からないような顔をして、首をかしげた。そこでやっと、一二三は独歩の様子がどうもおかしいということに気がつく。
独歩は実際こんなに無口ではないし、なんならこんな甘えた声も出したりしない。では、これは誰だ、と猛烈な違和感が押し寄せてきた。朝刊の隙間から、『中』の文字が刻印された黒い封筒がひらりと落ちる。嫌な予感がした。ああ、ひょっとすると、まさか。
『伊弉冉一二三様
中王区にて人体実験に使用した観音坂独歩を、遺伝子レベルで複製して返還いたします。
なお、オリジナルはお返しできませんので、ご容赦ください。
中王区監察局』
そこまで読んで、一二三は通達をぐしゃりと握りしめて放り投げた。どういうことかは分かっていた。
これは独歩ではない。
それまで嬉しかった気持ちも、途端にイカロスのように地に落ちて、一二三はかき抱いた人工の体を突き放した。それでも独歩の偽物は、にこにこと笑っていた。遺伝子の複製なんかじゃ再現できない二十一グラムは、そこにはなかった。
・・・
二十一グラム軽くなった独歩の偽物は、難しい言葉をしゃべれないらしかった。そして幼児の様な無邪気さで、一二三の名前をよく呼んだ。それだけしか知らないできそこないの愛玩ロボットのようでもあった。もしくは本当に愛玩用に作られたのかもしれなかった。どちらにせよ悪趣味なことには変わりない。
柔らかなテノールが塞ぎ込んでリビングに座り込んでしまった一二三の名前を呼んで、だいじょうぶ? と声をかけた。なにも大丈夫なことがあるか、と叫んでどうにかしてやりたかったが、独歩の顔をして独歩の声で喋るいきものに手を挙げることなどできそうもなかった。
それをどうして咎められよう。偽物だとわかっていても、一挙一動が恋い焦がれたものの成れの果てだ。
どこにもやれない右手を握りしめて、一二三は独歩の紛い物をどうするか考えた。返そうにも、男は中王区に入ることができない。そして、恐ろしいことに、こんな紛い物ではあるが独歩の体温がそこにあることに一二三はどこか安心をしていたのだ。
一二三はそいつに寄り添って、頭を肩にもたれかからせた。そうするとそいつは、まるで独歩がするみたいに一二三の体を抱いてよしよしと撫でた。
「大丈夫、ひふみ。大丈夫……」
おまじないをする母のように、イエスをなぐさめるマリアのように、そいつは一二三を受け入れる。それはいつか女性恐怖症のため明日が来るのを怖れた一二三を慰めた独歩そのものにも思えた。
自分と独歩が遺伝子レベルで惹かれあうなら、遺伝子が同じこいつにもすこしの愛を向けてしまうのはひとつもおかしくないことだ、と朽ち果てた心で一二三は自分に言い聞かせた。暗い部屋で独歩のような何かと身を寄せあいながら。
(終)
(ふにょすけさんの同人誌 憎けりゃ殺せ に寄稿した作品)