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幽霊の誕生日に捧ぐホモジナイズド生クリーム

​​(ココイヌ 9巻軸 赤音さんの誕生日のはなし)

 乾はカント顔負けの哲学者かもしれない、と思うことがある。冷蔵庫から出しっぱなしの牛乳をじっと見つめる乾を見て、九井は「何してんの?」と聞いた。
「生クリームを作ってる」
「生クリーム?」
 怪訝な表情で、九井は首をかしげた。やっぱりこいつってどうにかしている、と思いつつ、九井は「またどうして」とアジトのソファに座って再び尋ねる。
「ケーキ買ったんだけどよ。クリームが乗ってなかった」
 スーパーのレジ袋から、乾はスポンジケーキと書かれた5号スポンジを出して言った。おうちで作れる! といううたい文句通り、ケーキの一部ではあるが、どこからどう見たってケーキではない。
「ばっか、それスポンジだぜ」
「ケーキって書いてあるから、食えると思ったんだけど。違うよなやっぱり」
 三十を今度迎えようかという年の癖、なおこのぼんやりした調子だから、九井は乾のことをどうしても放っておけない。ケーキが食べたかったなら、オレに言えばいいのに、と九井は思う。
「そもそも、生クリームって牛乳じゃ作れないぜ」
「牛乳が原料だろ。オレだって馬鹿じゃねえ。牛乳をほっとくと脂肪があつまって、クリームになるって昔習ったんだ」
「そりゃ、牧場でやればの話だろ。っていうかそんなピンポイントでよく覚えてたな」
 その問いには、乾は「まあな」濁して答えた。その言葉の背後にいるのが誰かを察して、九井もあまり追及はしないでいる。
「市販の牛乳は加工されてるから、脂肪があつまらねえんだよ。だからそうやって見ててもなんもないぜ。捨てとけよ」
 乾の肩にもたれ、九井は言う。「ケーキが食いたいなら、オレが買ってやるからさあ」短く刈り揃えられた髪の、後ろ側をなだめるように撫でる。
「スポンジはどうする?」
「あとでなんか、フレンチトーストみたいにできねえかな」
「うん」
 乾はぼうっとその義眼のような虚ろな碧眼でしばらくスポンジケーキを見ていたが、それを机の上に寝かした。それから、「生クリームの〝生〟ってなんだろうな」と言った。ああ、また哲学者イヌピーの登場だ、と九井は思う。なぜなに期がいつまで経っても終わらないのだ、この男は。
「いま調べてやるよ」
 携帯電話で『生クリーム 生 意味』と検索すると、ずらりと検査結果が一覧に並ぶ。いい時代になったものだ。わからないことは、こうやってすぐ調べればいいのだから。
「英語でフレッシュクリームって言うんだって。フレッシュっていうのが、生って訳されてるらしい」
「ふうん」
 乾は九井の言葉にさして興味もなさそうに応えた。乾は感情表現が昔から少ない。わかりにくいやつだが、うるさいよりは九井にとって大分付き合いやすかった。そういえば、あの人も静かな花のような女性だったな、と九井は思い出した。乾は「もう似てないだろう」と言うが、彼と居る限りは一生自分はこうだ、という思いが九井にはあった。
 はじめくん、ココアがチョコレートにならないの、と笑うバレンタインデーの彼女を思い出して、大きなため息をついた。まったく同じだ。
「フレッシュなココ?」
 突然、乾が九井に向かって指をさす。「なんだよ、それ」
「生のココだから、フレッシュなココってことか、と思っただけ」
「生のオレがそんなに嬉しかった? 最近仕事で忙しかったもんな」
 東京卍會に於いて、二人がずっと一緒に居ることは実際問題少ない。ブレーンの九井と、肉体労働者の乾ではやるべきことに違いがありすぎる。だから、なにかとセット扱いされがちな二人がこうしてゆっくりと顔をあわせるのもそんなに多いことではなかった。
「うん。たぶんな」
「嬉しいこというじゃん」
 九井は笑って、その唇に口づけた。長いまつげに縁取られた目が、するのか? と九井に問うていた。それに、九井はキスを深くすることで意思表示をした。
「フレッシュなセックス?」
「なんでそういうこと言うんだよイヌピー。やめろよ笑うだろ」
 ふは、と九井は笑う。カント顔負けの哲学者なんて嘘だ、と少し前の自分の考えを訂正した。大丈夫、イヌピーは何も考えてはいない。大丈夫、今日が誰の誕生日かなんて覚えてはいない。
 
 

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