泥船タイタニック号地獄行き
(みつたい 同人誌再録)
自分が何をしたんだ、と木次義昭(きつぎよしあき)は冷たいコンクリートに横たわり、ここ数日のことを思い返していた。ただのしがない会社員の自分が、なぜこんな目に遭うのかちっともわからない。
木次を、着ぐるみの頭部が見下ろしている。テーマパークで子どもたちにかこまれているときはあんなにかわいらしく見えるそれは、そのしたにスーツの成人男性の体がくっついているとどうにも恐ろしく思える。
うさぎの着ぐるみの頭を被った男が、木次に語りかける。
「百万をどこにやった?」
「どこ、って」
木次が言いよどむと、男は持っていた鉄パイプを木次の胴体に振り下ろした。がつん、という音が脳に響いて、すぐに激痛が体に鈍く走る。うめき声を上げて、木次は丸くなった。男はなおも聞く。百万を、どこにやった?
「お前の口座に入っていた百万だ。あれはうちのモンだから、返してもらわねえと困るんだワ」
「ひ、百万? あ、ああ、あの金。あの金なら、俺はもう持ってないですよ。ネットで調べたら、ヤミ金の押し貸しだろうっていうから警察に届けようとしたんです。そりゃ、最初知らないでちょっとは使いましたけど……」
「使ったンだろうが。他人のもの使っちゃだめだって、小学生のとき習わなかったか?」
「だって、俺の口座にあったら俺のだって、そう思っても仕方ないでしょ。あ、あなたが何者か知らないですけど、どうせヤミ金融か反社かどっちかですよね。なら、俺は被害者じゃないですか……」
木次は、弱々しく着ぐるみ男に抵抗した。だから家に帰してください、と泣きべそをかいて乞うても、ただ鉄パイプでぶたれるだけだった。
「百万はどこにいった?」
「だから、警察に届けようとしたんですって……。紙袋に入れて持って行く途中で、誰かに盗られたんですよ。警察に行ったら、紙袋持ってなくて。人生ではじめてハイヤーまで使ったのに……。絶対あの車に忘れたンです。だからどうか、許してください、もう、俺に分かるの、これくらいしかないんです」
そう言う木次に、着ぐるみ男は言う。わかった、許してやる。くぐもった声に、木次は目を輝かせる。助かるのだ、と疑わなかった。もう、こんな思いはたくさんだ。ここから解放されたら、嫌いな上司にも、クソみたいな取引先にも優しくできる気がした。帰ったら、温かい風呂に入って、美味しいご飯でも食べよう。身の丈に合わないことはせず、慎ましい生活をして、そして一日の最後はこんなコンクリートの上じゃなくて、ふかふかの布団で眠るのだ。
「だから、今すぐ死ね」
着ぐるみ男が、白い紙とペン、そして充電用のコードを木次の前に置いた。はじめ木次はどういうことかわからなかった。嫌な予感がして、これはなんですか? と木次は震える声で聞いた。そうすると、男は丁寧に「遺書を書くんだよ」と教えた。
「今日お前は、ストレスのあまり死ぬ。首つり自殺だ。みんな悲しんでくれるぜ、よかったな」
その言葉で全てを理解したとき、木次は大声を上げて「助けてくれ!」と叫んだ。だれも助けてくれないと知りながら。
・・・
〝ああ、そうなんです。柴さんだから教えるんですよ。さっき、なんていうんでしょうね、新規でチップだって万札を何枚も渡してきたお客さんがいて。そうそう、五万円なんて、おかしいじゃないですか。羽振りが良すぎる。でも、お客さん、大丈夫だって言うんです。なんでも、大金が急に振ってきたって。いや、私は怖くて使えてないんですけどね。うちももう子どもが大学入学ですから、ほんとは貰っておきたいんですけど、これ、警察に届けた方がいいんですかね……〟
千代崎邦夫(ちよざき・くにお)、五十五歳。この広い東京を探せばどこにでもいるようなハイヤーの運転手が喋っている。一見、少し変わった客の話を常連に話しているだけの録音が部屋に流れる。しかし、九井一が手に入れたドライブレコーダーには、その『柴さん』がくっきりと映っていた。
「これ、大寿じゃねえか」
オールバックにストライプのスーツを身に纏った柴大寿を見て、九井の隣にいた乾青宗は、懐かしそうに目を細めた。懐かしがっている場合ではない、と九井は慌てる。
「イヌピー、ぼうっとしてる場合じゃねえって。これがどういうことか分かるだろ」
「どうもこうもないだろ。起こっちまったことは仕方がねえ、俺のやることは、稀咲の命令に従うことだ。そうだろ? ココ」
九井に、乾はガラス玉のような無感動な瞳を向けて答えた。その濁った青は、かつての黒龍(ブラックドラゴン)十代目総長と運命を共にした人間のものとは思えない。九井はそこで、もう自分たちがあの頃の自分たちではないことを理解した。
乾はきっと稀咲やイザナに命令されたら、大寿を殺すのをためらわないだろうと九井は思い、そんなふうになってしまったのはおそらく自分のせいだと自責に引きつった声で、「違いねえ」と言った。
画面の向こうの千代崎は大寿に向かって、世間話を続ける。
『ああ、柴さん。知ってますか? 最近、ここらで東京卍會っていうやばい組織の連中がうろついてるらしいんですよ。こないだの車上荒らしも、その影響だったって……。怖いですね、なんでもタクシーやハイヤーのETCカードを狙うっていうじゃないですか……』
「とにかく、古参のヤツらにだいぶ文句言われるだろうから、覚悟しとけよイヌピー」
「ああ、ココ」
そこで、九井は自らが踏んでいたそれに目を落とした。
「なァ、お前の不始末なのに、オレたちが頑張らないといけないってのはおかしいよなあ?」
「ァ、ぁぁ……。すみませ、すみませんっ、九井さんっ」
「ごめんで済んだら警察はいらねえんだよ」
九井はクソみたいなミスをしたバカを、革靴で蹴飛ばした。カエルがつぶれたような声を上げて、男は転がる。部下の不始末は上司がどうにかしなければならない。それは一般の会社も、半グレの組織も同じだ。
〝でも、柴さんなら勝ってしまいそうですよね。車上荒らしに。はは、いいなあ。見たいですよ、柴さんがスピード解決! なんて新聞の見出し〟
スピード解決してくれるようなヒーローなんかどこにもいないんだよ。うんざりした九井は、そこでドライブレコーダーの映像を停止した。とにかく、百万を取り返さなければならない。そしてそのことを知るものは消さなければ。たとえそれが自分たちのかつてのボスだとしても、上が黙ってはいないだろう。
九井は、真っ暗なモニターに映る自分を見た。そして、隣の乾に目をやった。自分はさほど柴大寿という男に思い入れがあったわけではないが、乾はあの男の暴力的な強さを好んでいたはずだ。そう心配しているのが分かったのか、乾は肩をすくめて「大寿だろうが、殺すだけだ」と言った。
「そういう組織だろ。ここは」
「違いねえや」
自分たちはそういう掃きだめにいるのだ。今更だ、なにもかも。大きな怪獣が出てきて、この町をめちゃくちゃにでもしない限り、救いはない。
・・・
「ああ、柴さん。今日もお疲れさまです」
ハイヤーの後部座席を開けて、千代崎邦夫(ちよざきくにお)は得意先の男にあいさつをする。彼は自身が趣味で経営しているというレストランから自宅までの足を千代崎に頼んでいる、柴大寿という会社経営者だ。百九十をゆうに超えるであろう身長と、恵まれた体格が見るものに威圧的な印象を与えるが、実際の彼はそれほど恐ろしい人ではない、というのが千代崎の考えだった。彼は静かに後部座席に座ると、「いつも通りに」と言った。千代崎はそれを聞いて、静かにアクセルを踏む。真っ暗のクラウンマジェスターが、都会の闇へと走り出した。
「最近、車上荒らしが多いって話は前しましたよね。柴さん、自家用車お持ちでしたっけ?」
「一台な。あまり乗ることはないが」
「そうですよね、東京って、自家用車だと停めるところないですもんね。有料駐車場ばかりで」
「だからお前に頼ってるんだ」
「ありがたいですよ。柴さんのお陰で私も、子どもも食っていけるってもんです」
はは、と千代崎は笑う。大寿は、目を閉じて千代崎の世間話にただ耳を傾けていた。千代崎と大寿の会話はいつも千代崎の一方的な世間話で終わる。それでも彼は千代崎を指定してハイヤーを呼んだ。ということは、彼もこの会話を悪いとは感じていないらしい、というのが千代崎の推測だった。
「いや、それが。前に乗せたお客さんがいたでしょう。その人、どうも死んじゃったみたいで……。自殺ですよ。警察がやってきて、聞いてきたんです。紙袋がなかったか、って」
「紙袋?」
「そうなんです。どうも、あの人死ぬ前に大金を銀行からおろしてたみたいで、それを持ち運んでたらしいんです。私が知らないって言うと、防犯用のレコーダーをよこせって言われて。警察ってあんな暴力的なもんなんですかね」
そこで、ラジオから車上荒らしのニュースが流れる。またか、と千代崎はラジオのチャンネルを変えた。ゆったりとしたクラシックが、車内を包む。
「それは、ちゃんと警察だったか?」
寡黙な大寿が口を開いたと思ったらそんな恐ろしいことを言うので、千代崎はつい大きな声になって、「警察でしたよ!」と返した。
「ああ、ほら。ここでいつも検問してるんです。車上荒らしやら東京卍會やらで、最近物騒だから……」
千代崎はそこで車をゆっくりと停め、ウィンドウを開けた。黒髪で人当たりのよさそうな青年が、こちらを覗き込んだ。
「ああ、すみません。ちょっと、お聞きしたいことがあって」
「はい、最近物騒ですよね。身分証明書今出しますから」
「いや、それはいいんですよ。ね。大寿くん」
にこり、と警察官は千代崎ではなく、後部座席に座っていた大寿に笑いかけた。大寿はその男の名前を呼ぼうとして、人差し指を立て制される。どういうことですか、と千代崎が言うと、どうもこうもない、と警察官は言った。
「いや、今、彼に車上荒らしの疑いがかかってまして。任意同行してもらいたいんだよね」
「任意同行」
「そう、任意。まあ、来なかったらどうなるかは、そこの彼が一番わかっていると思うけど」
警察の口ぶり、そして雰囲気から、これはおそらく本物の警察ではないのだろうと千代崎は察した。今すぐアクセルを踏んで逃げるべきかと迷っていたが、大寿の方が「降ろしてくれ」と頼んできた。
「でも」
「いい。世話になったな。代金はもう払ってあるし、気にすることはない」
千代崎が車のドアを開けてやると、大寿は警察に連れられてどこかへ行ってしまった。どうすることもできなかった、と千代崎は悔いた。でも、自分にできることはないだろうとも分かっていた。ただ、無事でありますようにと願うだけだ。
千代崎はまた、車を東京の町へと走らせる。そして、その黒い車は都会の闇に溶けて、消えた。
・・・
「三ツ谷、俺に何の用だ? そんな格好までして、今更俺と会おうなど」
連れられたマンションの一室で、大寿はようやくその名前を口に出した。「三ツ谷」と呼ばれた警察官のコスプレをした男は、呼ばれたことが嬉しいといった様子で破顔する。
「またそうやって大寿くんに呼ばれるなんて思ってなかった」
「世間話をするために来たわけじゃない」
黒髪になり雰囲気の変わった三ツ谷は、それでも昔のように大寿のことを愛しそうに呼んだ。大寿と三ツ谷の関係は、大寿がカタギになり三ツ谷が東京卍會に入った時点でもう終わったものだと大寿は自認していた。だのに、三ツ谷の声はまるで織り姫星が彦星に出会ったかのように甘い。
「まあ座りなよ、立ってばかりじゃ疲れるだろうし」
睨み付ける大寿を、シンプルかつ高級そうなソファに三ツ谷は座らせた。自分はその向かい側に座って、三ツ谷は大寿に言う。
「まあ、なんていうかさ。しばらくここに居て欲しいんだワ」
「それは、ここから絶対に出るなという命令か?」
「賢いな。簡単に言えばそういうこと。ごめんな大寿くん。ちょっとこっちも事情があるんだよ」
その事情とやらは話す気がないのだろう。勝手に人を軟禁しておいてその態度はなんだと殴ってやりたくなったが、もうそんな年でもない。大寿は「出したくねえなら首輪でも足かせでもつけておくんだな」と皮肉った。
「いいね、首輪。オレのみたいで」
「そういう趣味だったのか?」
「趣味っていうか、オレは大寿くんが趣味だからさ」
相も変わらず、人を口説くようなしゃべり方をする。まだ俺のことが好きなのか? などといたずらに聞いてみようかと思ったが、そんなことを聞いても詮無きことだ。なんせ、相手は反社会的組織の人間なのだ。好きだったらなんだというのだろう。口にしたところでそれが実るわけもないのに聞く意味は大寿のなかに存在しない。
「この部屋、オートロックだから。ちなみに鍵を持ってるのはオレだけ」
「理解した。理解したが……、それをしてお前らに何の得がある? 俺はもう、ただの一般人だぞ」
「そんなの、大寿くんには関係ないだろ。久しぶりに会えたのに、損とか得とかそういうのやめようぜ」
やはりといったところか、何を聞いても暖簾に腕押しだ。カードキーを奪って逃げてしまうこともできたが、腰のホルスターに下がっている拳銃が気になる。撃たれたら一巻の終わりだ。そして、この男は万が一のときは平気で自分を撃つだろう、と大寿には確信めいたものがあった。
「分かった。お前がこんな状況で頭の湧いたことを言うバカだということがな」
「好きな相手の前ではバカになるものだろ?」
「詭弁はやめろ。そういう風に思い出を穢すのは。昔のお前が泣くぞ」
クレープを食べて笑っている少年の姿は、今の大寿にも鮮明に思い出せた。三ツ谷は生来「友人」というものを持たなかった大寿自身の、最初で最後のそれらしい相手だった。家を出た手前、弟の兄貴分と会うのはいつも彼らに隠れてのことだった。乾や九井とは違って、完全に対等な友人、もしくはそれ以上。それが柴大寿にとっての三ツ谷隆だった。
「大寿くんへの気持ちは、今も昔も変わらないよ」
「そう言ってどうする。どうにもならないだろう」
「でも、大寿くんだってオレに会えてうれしいくせに」
そう言われてしまうと、否定できず言葉に詰まった。このながい年月で、会いたいと思わなかった日が一度としてなかったといえば嘘になる。もの寂しさを感じる夜はなぜかいつもこのおしゃべりな男のことばかり考えてしまうような、それほどの相手だった。
「……こんな再会はしたくなかったがな」
だから、大寿は曖昧な濁し方しかできなかった。嬉しくないと言えないのを分かっているのか、むすりと仏頂面をしている大寿を三ツ谷は笑ってからかった。
「っはは! 大寿くん、変な顔。カワイーぜ、相変わらず」
「お前は相変わらず、やかましい」
「ふふ、でもそれが嫌じゃないんだろ」
こうして話しているとお互いの立場を忘れてしまいそうになる。三ツ谷と大寿はタイプが違いこそすれ、お互い長兄という立場で共感するものがあった。それでかは知らないが、一緒に居て気楽で、大事な存在だった事は確かだ。だが大寿にとって三ツ谷に対するそれは同性愛というのとは少し違った。男が男に惚れると表現すべき、憧憬のような気持ちを持っていた。少なくとも、大寿はそう感じていた。
一方の三ツ谷がどうだったかは如実に態度に出ていたので、聡い大寿はすぐに、この男は自分を『モノ』にしたがっている、と気づいた。それを分かっていながら離れることをせず、ただ誘いを袖にし続けるだけにとどめていたのは、大寿自身が、その愛情に甘えたくなかったからというのが正しい。縁を切った弟の兄貴分とずぶずぶの関係だなんて、笑い話にさえならない。
「あーあ、やだな。大寿くんてば、オレを全然悪者にさせてくれないね。一応、拉致監禁だぜ? もっと被害者っぽくしてくれよ」
「お前も加害者っぽくしたらどうだ。似合ってねえぞ、その服」
大寿がふんと鼻を鳴らすと、三ツ谷は情けなく笑って、頭をかいた。そのへにゃりとした笑みは子どもっぽくて、昔を想起させた。お互い年を経て変わってしまったが、変わらないものもある。東京卍會の幹部になっても、三ツ谷隆という男の本質は変わっていないように大寿には思えた。元来、性根が優しいやつなのだ。
それ故に今の状況に大寿は立腹していた。上っ面だけで接されているような気持ち悪さにぞっとする。
「加害者っぽく? やっぱり、縛り上げてリンチでもしたらそうなるのかなあ」
「さっきからうるせえぞ。べらべら喋りやがって。ド突かれてえのか」
ドン、と三ツ谷の代わりにテーブルを殴ると、部屋が静かになった。へらへらと笑っていた三ツ谷も、真顔になる。
「……ド突いて終わることなら反社がカタギに手エ出すわけねーんだわ。オレだってちゃんとそれなりの覚悟でオマエを連れてきたっての、わかんねー?」
「説明もせず了解もとらずにか? いいご身分だな東京卍會っていうのは」
「ああもう、オレはいい年して大寿くんとケンカしてえわけじゃねえの。でも、説明はしないぜ。こっち側のことをカタギが知る必要はねえだろ」
「カタギだ反社だ、こっちが黙っていれば肩書きばかりだな三ツ谷ァ。勝手に連れてきてはい監禁ですって納得するヤツがいるか? いねえだろ。だが、お前と俺の仲だ。詮索はしねえし、ここに居ろというなら居てやる。ただ、お前に監禁されるというんじゃねえ。俺がここに居ると決めたから、居るんだ。それで死ぬんなら死ぬで構わねえよ。どうせ今こうして生きてるのも、あのクリスマスのロスタイムみたいなもんだしな」
「ハハ、大寿くんはかっこいいな。いいよ、オレと一緒にいよう。同棲みたいで、ちょっとテンションあがるな。やめるときもすこやかなるときも、なんて誓えたら良かったのに」
現実はそうならないだろうと思っている、という裏腹の言葉だった。大寿は三ツ谷のそのわざとらしいキザな態度がむかついてならない。大人になった三ツ谷は、さっきから詭弁ばかりだ。理論武装などできるような柄じゃないくせ、予防線を張るように曖昧な答えしかしない。このまま正直なことを言わないままならば、タイミングを見て絶対にぶん殴ってやる、と大寿は心に決めた。
・・・
柴大寿を拘束したという連絡があったのは、夜のことだった。検問に扮した三ツ谷が捕まえたそうだが、どうやったのか九井には皆目見当がつかなかった。
「大寿が捕まったってよ。よく三ツ谷も捕まえたもんだ」
「あいつもいつまでも最強じゃねえ。オリンピックだって、同じ選手が金メダルをいつもとれるわけじゃねえし」
乾は眠たそうにしながら九井に答えた。そうだ。最強が、いつも勝つわけではない。大きな怪獣も、人間の作ったロボットに敗れる。特撮映画が、二人の前で流れていた。
「亀のやつ」
「なに? イヌピー」
「俺、この亀のやつ好きだな」
半分寝ながら見ていたテレビに向かって、乾は人差し指を突きつけた。そこでは亀のすがたをした怪獣が、もう一方の怪獣と対決しているところだった。
「それ見てたのか」
「わりと。こいつ、子どもにやさしくてさ。戦うんだ。でも、そんな強くなくて……それがちょっと真一郎くんに似てた」
乾がその名前を出したのは久しぶりのことだった。大寿のことがあって、昔のことを思い出しているのだろうと九井には思えた。
「いいな。俺、こういうの好きだ」
眠そうに、だが依然としてテレビを消さず乾は特撮映画を見ている。ファミリー向けとか言われていた、自分たちがちょうど子どもだったころに出来た映画を。たしかに、負けても負けても立ち上がっている亀の怪獣を、子ども達が応援している。
「大寿、がんばれ。大寿、負けるなって言ったら、アイツ、勝っちゃうかな」
笑って、乾が言う。乾はやはり、大寿に死んで欲しくないのだろう。黒龍(ブラックドラゴン)十代目総長と、その部下として過ごした青春を忘れてはいないのだ、とまざまざと分かって、九井は嫌な気持ちになった。なぜなら九井は、自分は大寿を殺してもおそらく乾ほどに胸が痛まないだろうということが如実にわかってしまったからだ。だから黙って、九井は相手にメッセージを送って舌を出す。
「大寿は死ぬぜ。明日にでもゼラチンで固められて海の底だ」
「そうか。俺はべつにいい。大寿でも死ぬときは死ぬ。真一郎くんだって、……赤音だってそうだったし」
九井がその名前を聞いて息を詰まらせたので、乾は謝った。ごめん、と言う乾に、九井はなにも返せない。
「ココ、お前……」
乾はなにか言いかけて、やめた。テレビの向こうでは、亀の怪獣が奮戦していた。地球の未来を守るために。
・・・
テレビをつけると、ちょうど特撮ものの映画が放送されていた。チャンネルを変えて、ニュースを見ていれば三ツ谷のひやりとした手が大寿のふとい首筋に触れた。ば、っと振り向くと、三ツ谷がいたずらが成功した子どものように笑っている。
「大寿くん、無防備! それが元総長の態度かよ」
「お前相手に気を張る必要がないだけだ。殺されンならそれでいいっつったろ。それに、そんなのガキの頃の話だ」
十代目総長といったって、そんなのもう十年以上前の話だ。十年、十年もあればテレビのアナログ放送が地上波デジタルに変わり始めて、もう数年したら完全移行するという。この左端のアナログという表示も見なくなる日が来る。社会さえ変わるというのに、人間ひとりが変わらないわけがない。
「殺しなんかしないって。ただ、ほんの少し側にいて欲しいだけ」
「今日はやけにセンチメンタルだな。案外、死ぬのは俺じゃなくてお前だから、死に目に会いに来たネコみたいに顔を見せたかったのか?」
大寿がそう聞くと、三ツ谷は薄く笑って大寿の長くのびた襟足を遊ぶように指にからめた。子どもの頃よりセックスアピールに遠慮をしなくなったな、と大寿は思う。
「違うけど、そうだったら大寿くんはオレのお願いを聞いてくれるのかよ」
「もう聞いてるだろ。ここから出てないってだけで、充分じゃねえか」
「まあそれもそうか」
やはりはっきりモノを言わない三ツ谷が腹立たしい。言いたいなら言えばいいじゃないか。愛していると、好きなのだと言ってくれれば、言ってさえくれれば大寿だってノーを突きつけるなりなんなりするのに、物欲しそうな顔ばかりして三ツ谷は欲しいと言わない。お兄ちゃんだから我慢しなさい、と言われたときの子どものようだ。我慢なんか本当は誰だってしたくないのに。
「あのさ、今のニュース」
「あ?」
「ストレスで自殺した……っていうの。ほんとはストレスなんかじゃないんだ。首つらせたの、オレなんだよね。仕事上邪魔だったからさ。まあ、だからってどうってわけじゃねえけど」
今度こそ大寿は振り返って三ツ谷をぶっとばした。振りかぶった正拳が三ツ谷の胸にあたって、その体がよろける。現役は退いたが、まだ体は戦い方を覚えていた。三ツ谷は咳き込むと、地面に唾を吐く。
「試すようなマネばっかしやがって、はっきり言わねえか。悪いが昔の方がお前、一本芯が通ったいい男だったぜ」
昔のように大寿が獣の目をしてにらみつけると、相手は「タイマン張るなら、不意打ちはダメだろ大寿」と今度こそ本当に笑った。やはり、お互い性根は不良なのだ。向いていようがいまいが、拳を交わすことが語りあうことだと、そう信じてやまないただの不良だった。
三ツ谷のホルスターから拳銃は抜かれない。なぜなら、ここにいるのはあの日殴り合ったままの不良少年だからだ。
やられっぱなしではいられないと三ツ谷が拳を繰り出すと、すかさず大寿も右ストレートで応える。左の腕で三ツ谷の渾身の右をガードした部分が、みしりと音をたててきしんだ。
「ッハア! 痛エな、結構キくぜ東京卍會!」
「そりゃ大寿、おめーよりは鍛えてるんだワ」
「でも心はあんとき以下だな、メンタルが弱いヤツの拳は軽い。お前の拳はもっと重かったはずだ」
「それは……まあ、否定しないけど!」
たがか一発、されど一発。それで二人は本当に打ち解けられた気がした。三ツ谷が笑う。大寿も久々に笑った。思えばあの頃はもっと自分の感情に素直でいた気がする。大人になると、しがらみも増えて、こうやって誰かと拳を交わすこともなくなった。
手を出せば、どちらからともなく足が出て、最後はお互い胸ぐらを掴んでいた。
「慰めて欲しいンだろ、言えよ正直に」
「それを言ったら慰めてくれんのかよ」
「お前の態度による」
「なんだよ、それ……」
三ツ谷は大寿のシャツを掴んでいた手を離し、うなだれた。その姿があんまりにも可哀想だったので、もういじめるのはやめてやろうと大寿はその顔を掴んでキスをしてやった。唇と唇が触れあうだけのものだったが、三ツ谷は赤面して、「ずるい」とこぼした。いけすかない男の鼻をあかせて、大寿は満足してふん、と鼻を鳴らした。
・・・
分かっていた。終わりが近いと言うことが。黒川イザナが、自分の大事なモノを佐野万次郎に奪われたように、佐野の大事にしているもの全部をすっかり奪ってしまおうとしていたことは、三ツ谷も知っていた。だんだん東京卍會の人間が、減っているということ。それは、佐野が誰かを手にかけたということと同義だった。イザナの『自分のところまで堕ちてきてほしい』という欲望に唯々諾々と従った佐野は、人間として堕ちるところまで堕ちていくそのさなかだった。
「幹部会に出てくる古参がまたいなくなってて、ああ、あいつら死んだんだって気づいたとき」
じきに自分の番が来る、と三ツ谷は察したのだ。死が、影のように背後にまとわりついている感覚が三ツ谷を襲った。そのとき、漠然と誰かに会いたいと感じた。
「オレも長くないと思った。だから、なんやかんや都合つけてここに大寿くんを連れてきたのはただのわがままなんだ。どうせ死ぬなら死に目に会いたいのは誰かって考えて。ルナとマナは、会っちゃいけねえだろ? ってなると、目の前のニンジンに飛びつくしかなかった」
「俺は人参か?」
「とびきりのね」
だから、九井の部下がやった不始末を片付けろと言われたリストに柴大寿の名前を見つけたとき、いてもたってもいられなかったのだ。大寿だってカタギのはずだが、そこは考慮されていなかった。そういう相手だった。三ツ谷にとって大寿というのは、『カタギであっても側にいてほしい』と願うほどの。
「お前でも自分勝手になにかをすることがあるんだな」
「自分勝手になるさ。死ぬってなったら」
乱闘のせいですこしきしむソファで、二人は話した。クレープを食べにいったあの店が、もう原宿には残っていないということ。そして自分も、いつかいなくなるだろうということ。
「だから、なあ。大寿くん。今生のおねがいだと思って聞いてくれよ。愛してる。最後に、なにか思い出になることがしたい」
大寿は、こいつやっと言ったな、と思った。満点だと分かっているテストの点数をしらされたときのようなこころ持ちだった。その提案に否とは、大寿も言わなかった。大寿は実際三ツ谷に心底惚れていたし、たとえ彼にどんなことをされても許せると思っていた。その「惚れた」が同性愛的なものだろうとそうでなかろうと、だ。
「具体的に言え。遠回しなのはもう飽きた」
「大寿、好きだ。今生もう会えないなら、お前のぬくもりだけ覚えて死にたい」
「添い寝でいいのか、無欲だな」
「それ以上を望んでいいの?」
子どもの目をして、三ツ谷は問う。それで初めて、この十年以上に渡る「お預け」をやめようと大寿は思えた。三ツ谷に、初めて欲しいと言われた。もの欲しそうにショーウィンドウを眺めるばかりの子どもが、どうしても欲しいものを見つけて初めてわがままを言うように、欲しいと乞われたのだ。
「いい。お前がそれでいいなら」
「それがいい。それがいいんだ、それだけで、俺はじゅうぶんで……」
二人はもつれあうように再び口づけた。遠慮がちに開かれた三ツ谷の唇から、大寿の分厚い舌が入り込み、舌同士が絡まる。積極的な大寿に三ツ谷は驚き、身を固くした。くちゅ、と唾液が音を立ててこぼれ落ちる頃には、お互い息が上がっていた。
「はあ……、大寿くん。情熱的じゃん」
「そういうお前は初心だな」
「本命とは初めてなの」
絡み合ってソファに大寿が三ツ谷を押し倒した形になり、三ツ谷の勃起した陰茎を大寿は膝でぐいと押してからかった。三ツ谷は、赤面してそれを制する。
「しゃぶってやろうか?」
「大寿くん、したことあるのかよ」
「別に、ねえが、お前のならいい」
色っぽく大寿が舌を出した。三ツ谷は、せめてシャワーを浴びてから! と言うことしかそれに抵抗らしい抵抗ができない。
・・・
九井の手のなかにある携帯電話に、二通の新着メールがあった。一通は稀咲からの、柴大寿を始末するようにという要請のメール。もう一通は、三ツ谷からのメールだ。それにどう返信するか考えあぐねていると、映画を見終わった乾が、九井に向かって言った。
「ココ、迷ってるだろ」
「何が?」
「なにかに」
乾に隠し事はできなかった。いつだって、彼は九井の気持ちを九井以上に分かっているようなことを言った。そういうところが彼の姉・赤音に似ていた。顔はもう似てはいなかったけれど、彼にその面影を感じてしまうのはそのせいだった。
「損するって分かってるけど、損するほうを選びたいって顔だ」
「なんでも分かるのか? 俺のこと」
「なんでも分かるさ。もう十年以上そばにいるんだぜ」
乾は眠たそうな碧い目で九井を見つめる。この碧い目に昔から弱かった。その目で見つめられると、何もかもをさらけ出してしまいそうになる。
「いや、イヌピー。損して後悔しない方と、得して後悔するほうだったら、どっちがいいかと思ってたんだ」
「そんなの、ココの好きなようにすればいいじゃないか」
彼の言うことはいつだってストレートだ。まっすぐで、そして愚かだ。だが、その愚かしさが九井にとってはなによりもまぶしい光だった。
「あー、えっと。大寿のことなんだけど。あいつ、助けてやれねえかなってちょっと思ってただけ。死ぬには惜しすぎる。アイツの企業を抱き込んで、フロントにしてもいいかなって思ったんだけどさ」
「ココは大寿に死んで欲しくないのか?」
「死んで欲しいとか、欲しくないとか、考えたこともねえや」
ただ、少しかわいそうに思っただけだ。青春時代をすごした仲間が、こんなちっぽけなことで命を落とすことが。
「イヌピーは、殺すの嫌じゃねえの?」
「大寿は、良いヤツだった。八代目より、九代目より十代目の黒龍がよかった。でも、それだけだ。殺すときは殺す」
裏切られた気持ちだった。九井は、乾に「柴大寿に死んで欲しくない」と思っていて欲しかったのに、そうではなかったということに一人傷ついていた。割り切れないのは自分だけなのか、とも思った。
「ココは優しいな。殺させたくない、ってやっぱり考えてる」
そうなのか、とはっとする思いだった。大寿に死んで欲しくないと考えているのは、乾ではなく自分なのだと気づかされたのだ。それを乾がそう思っているから、と言い訳していたのは九井自身だった。
「イヌピー、オレやっぱり損するほうを選ぶよ」
「ココがいいなら、俺もいい。俺はココが選んだ方を選ぶ」
選択を迫られていた。柴大寿を殺すか、それとも生かすか。新着メールの表示が、九井の手の中でまだ点滅している。
・・・
裸の胸に顔を寄せながら、この、柴大寿という男が自分に身を捧げてくれることがどれだけの愛の証左になるかを三ツ谷は考えた。三ツ谷のために腹の中を洗い、もともとは性器ではないそこを明け渡してくれるということがどれだけの決心が必要かということを。
濡れるはずもないそこは、さわるとローションでぬるりと滑っている。指を滑り込ませれば、ぬちゅ、といういやらしい水音とともに大寿が息を詰まらせるのがわかった。
「大寿くん、大丈夫? 気持ちいい?」
ふうふうと顔を真っ赤にして大寿は三ツ谷を睨んだ。気持ちいいとは言わなかったが、気持ち悪いとも言わなかった。それが答えだった。嫌なら嫌だというはっきりとした性格の大寿であるから、三ツ谷は笑って、愛撫を続ける。
「ふう、っ……。う、うっ、しつ、けえぞ、三ツ谷ァ」
「しつこいって、大寿くん、オレの挿れんだぜ? 準備はしすぎることはねえだろ」
「だからって、あァ、あ、そこッ、ばっか……」
直腸内をまさぐる指が気持ちいいところに触れているのだろう、という風に大寿は身をよじって善がった。痛みに強く、殴られても笑い飛ばして仁王立ちしているようなあの柴大寿が、この手の一挙一動に翻弄されているというのは三ツ谷の征服欲を満たしてあまりあるほどにいやらしい。準備と称して、一度達するまで触っていたい、と三ツ谷は思うくらいだった。生来世話好きな三ツ谷であったから、ベッドの上で転がるまな板の鯉を丁寧に丁寧に下ごしらえするくらいわけないことだった。
「おい、もうっ。入れろ、あ、入れろっ、って……!」
前戯の快楽から逃げたいばかりに、ぎゅうとシーツを掴んで、切ない顔で入れろと懇願する姿が、どんなに三ツ谷の興奮を煽るものか、大寿は知らない。
「大寿くん、ちょーっと、床上手がすぎねえ?」
三ツ谷の口の中はカラカラに乾いている。一旦手を抜いて、大寿に口づけた。すっかり覚えた深いキスで、二人はお互いの水分を吸いつくすように粘膜をすりあわせる。こんなに、三ツ谷が前戯に時間をかけた女は一人もいない。また、キスひとつでこんなにも気持ちよくなれたセックスもなかった。きっと大寿もそうだろう、とほとんど願望で三ツ谷は決めつけた。
「すげーね。大寿くんとなら、いつまでもキスしてられるや」
子どものように笑った三ツ谷の頬を、大寿の大きな手が包む。そして、大寿は三ツ谷の鼻先を軽くかんだ。
「キスだけで満足するのか? お前は」
そうして大寿はニヤリと歯を見せて挑発した。やられっぱなしではないのだ。三ツ谷はぐん、と股間のそれが熱を持つのを感じた。満足するわけがない、と三ツ谷は仰向けになった大寿の腰骨を持つ。
「後悔してもしらねーから、なッ」
悪態をついて、三ツ谷はずぷずぷとゴムをつけた陰茎を大寿のなかに埋め込んだ。大寿は指とは比べものにならない質量のものを受け入れ、かすれた喘ぎ声を上げて身をよじる。それはいつ見たどのアダルトビデオよりも、三ツ谷を興奮させた。
「はあ、あ、やべえ……。大寿くんのなか、気持ちいいわ」
ぐねぐねとうねる肉に包まれて、三ツ谷は熱い息を吐いた。しばらく馴染むのを待って、そして律動をはじめる。自分のそれが、大寿の中にあるというのが信じられないくらい現実感がない。ただ、三ツ谷のなかにはやはりこの男が好きだ、という深い愛情と、死ぬ前に抱けてうれしい、という喜びがあった。あとの残りは気持ちいいで埋め尽くされていた。
「あ、ァっ、ふうっ、ヴ、ヴっ」
「大寿くん、気持ちいい? オレは、っ、すっげえいい、よっ」
「お、まえっ。そればっか、アアッ! だな、っ」
「だって、聞きたいじゃん、な、あッ」
気持ちいいか、と執拗に三ツ谷が聞くと、大寿は最初渋ったが、きもちいい、と小さく言った。大寿は処女のように貞淑に乱れ、ユニコーンすらもその処女が散るのを見たいと言うだろうと思えるほど美しかった。
花の散るのが一番美しいって、こういうことなのか、とそこで三ツ谷は気がついた。そして、二人はお互いの精を吐き合って、まだ抱き合った。
・・・
『オレも協力してやる』
三ツ谷の携帯電話にそうメッセージが入ったのは深夜だった。彼からその連絡がくるとは思っていなかったため、はじめ三ツ谷は驚いた。それに、もうバレているのか、という焦りもあった。
大寿は情事のあとがのこるベッドの上で静かに寝ていた。死んだように寝るヤツだ、と三ツ谷は思う。この寝顔が見れるのも、もうしばらくの間のことだ。最初で最後のハネムーン。そう三ツ谷は思っていた。
東京卍會が「柴大寿および木次義昭・千代崎邦夫を始末する」という方向で、九井の部下がしでかした不始末の後片付けをしようとしていると知ってから、三ツ谷の決断は早かった。とにかく、東京卍會から大寿をどこかに隠してしまわなければならなかった。九井が協力してくれるかは五分五分のところだったが、チャンスがないわけではなかった。実際、九井は協力をしてくれた。
『木次義昭はもう始末した。問題はどうやって幹部のやつらを納得させるかだ。正直百万ぽっちどうなってても問題じゃねえ。カネなんかいくらでもオレが稼ぐ。だが、上のやつらはケジメを求めてる。柴大寿の首が欲しいんだ』
『それは絶対に避けたい。どうにかならねえのか?』
『どうにかするしかねえ。オレが考えてみるから、オマエは大寿を逃がすことに専念しろ』
どうにかって、どうだよ、と三ツ谷は呆然として九井からのメッセージを見つめた。そこで、大寿が身じろぎをして、すこし寝相が乱れる。三ツ谷の心は、その微細な動きにさえ、乱されてしまう。
死なせるわけにはいかなかった。かつて愛した、そして今も愛している人が、自分たちのせいで失われてしまうなど三ツ谷には耐えられなかった。
九井からのメールを知らせる着信音が鳴った。すぐさま三ツ谷は携帯電話を開ける。
・・・
いつも脅す側が、もし脅されたら? お化け屋敷の脅かし役のスタッフが、客に脅かされたらどうなる? もし、もしも、反社会的組織が、ただの一般人に脅迫されたら?
『お前にしてほしいことがある』
車を回してきた帰りに見知らぬ番号から電話がかかってきて、千代崎がそれを取ると、知らない声がそう言った。
「ええ? 間違い電話じゃないですか?」
『のんきな事を言うな。とにかく、検問があるだろ。そいつらは警察じゃない。お前は連中にこう言うだけでいい』
「なんだって?」
『いいか。お前がやらないと、お前の奥さんに子ども、とにかくたくさんの人間が死ぬ。俺は死んだっていいが、ココ……それが嫌なやつもいるんだ。だから良くない。何度も言わないぞ。『自分を殺すと、稀咲がひどい目にあうぞ』と言え。お前がそう言うだけで、全世界が平和になる。お前も明日の朝ご飯を美味しくたべられる』
「き、稀咲ってなんですか? 誰ですか? 私は、なにを言われているんですか?」
『がんばれ、負けるな。いいか、自分を殺すと』
「殺すと」
『稀咲がひどい目にあう、だ。お前はガメラだ。俺たちが、応援をする』
ガメラになれ、と電話の向こうの男が言う。亀のかたちの怪獣のイメージが、千代崎の頭に浮かんだ。自分の得意先の柴大寿が警察に連れて行かれたり、謎の男から電話がきたり、どうもここ最近周りがきなくさい。すべては東京卍會のせいなのだろうか、それを聞こうとして電話が切れる。
そうしてハイヤーを走らせていると、警察が今日も同じ場所で検問しているのを見つけた。それが警察ではないだろうことはもう分かっていた。車を停め、ちょっといいですかね、という警察に、千代崎は口を開く。胸がはやる。私が言わなければ、妻も子どもも死ぬのだとあの男は言った。複数人で窓を覗き込む姿が、千代崎にはレギオンに見える。
「き、きさき」
「なんですか。ちょっとお話があるんです、車から降りてくれますか」
「きさきがひどい目にあいますよ」
「は?」
明らかにカタギじゃない雰囲気の男たちにびびりながら、千代崎は言葉をひりだした。稀咲が、ひどいめにあうぞ。一度言ってしまえば、簡単なことだった。
「稀咲がひどいめにあいますよ。私を殺すと」
それが崩壊の合図だった。明らかに男たちはうろたえる。「なんで」「稀咲さんが?」とガヤガヤ騒いでいる男たちから逃げるように、千代崎はアクセルを踏む。そのまま、千代崎のクラウンマジェスターは首都高速に乗った。
・・・
「別府に、九井が買った別荘があるらしい。そこに逃がしてくれるってさ。大寿くん、愛されてるじゃねえか」
「別に、あいつらになんかしてやったことなんかねえよ。それに、どうせ逃げ切れやしねえだろ」
見出しなみを整えていた大寿が呆れたようにいう。確かに、日本最大の反社会的組織から逃げるのは、どう考えても容易ではない。だから、ここからが本当のロスタイムだろうと大寿は考えていた。あの聖夜から続く、長ったらしい人生のロスタイム。
「逃げ切れるとこまで行こうや。オレは大寿くんとなら、怖いものなんてなんにもないんだ」
バキ、と三ツ谷は使っていた携帯電話を逆に開いて割った。ゴミになったそれを、なんの躊躇もなく放り投げる。新着メールも、不在着信もたくさん来ていた。きっと、東京卍會はいまごろ大騒ぎなのだろう。稀咲の命が危ない、なんて虚言が効力をもっているうちに逃げ出さなければ。
「行こう、大寿くん」
三ツ谷が出した手を、大寿が握った。その手から伝わる温かさだけが二人の間では真実で、それ以外はなかった。朝焼けの空が二人を照らした。はやく行かなければならない。町が起きだすのにあわせて、審判が笛を吹く。ロスタイムの始まりだ。
・・・
稀咲は極めて賢いが、一方でどうしようもなく阿呆だ。それが九井の稀咲への評価だった。ほんとうのただの一般人に「稀咲が危ない」と言われただけで脆くなる組織を作ったのだから。
「稀咲は論理的な男だ。頭でっかちなのさ。なんでもかんでも、なぜ、どうしてって考える。そっちに気が取られて、俺達が裏切ったなんて気づきもしねえ」
「一時的だろ。こんなハッタリ」
「そうかもしれねえ。でも、ハッタリなんか一瞬相手の鼻をあかせればいいんだ」
九井は舌を出す。東京卍會は、現在大騒ぎになっていた。稀咲の命が危ないと伝えられた下っ端の話が上に通るまでに、下では大混乱が起きている。縦社会の弊害というかなんというか、と九井は肩をすくめる。
「俺たちどうする?」
乾が言う。九井は、手にひっさげた拳銃を弄んで、笑った。視界に、憤激した稀咲がとびこんでくる。もうバレたか、という思いと、よくこれだけ保った、という達成感があった。
「そりゃ、愛の逃避行が上手くいくようお祈りするしかねえよ」
九井が拳銃を構える。こんなの当たりっこないのは自分が誰より分かっていた。
「オレは恋愛ごとに弱いんだ」
おわり