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​もう銃声は聞こえない

(左独 ねつ造過去・ゼロサムバレ 18歳×22歳)

 碧棺左馬刻の半生は、ろくでもないことばかりであった。父親は典型的なアル中DV男で、母親はいつも暴力を振るわれていた。優しい母だった。クソみたいな人生で、左馬刻が愛していると思えた数少ない人間だった。だから、そんな母が父を殺して自殺した時、左馬刻はどういう顔をしていいかわからなかった。あんな善良そのものの母が人を殺せたのかという驚きと、妹の合歓と自分を母までもが見捨てるのかという悲しみが胸を渦巻いていた。
 思い返してもどぶ泥にまみれた人生だ。親をなくしたガキに出来ることは限られていたし、まだ幼い妹を養ってやるには普通のバイトなんかじゃどうしても足りなかった。結果、左馬刻はヤクザの手伝いをするゴロツキとして生きることを選んだ。左馬刻を拾った組のオヤジの名前は、火貂退紅といった。
 しばらくはずっと火貂組の下っ端として、シマを荒らすやつを排除するための鉄砲玉みたいな扱いを受けた。左馬刻の命を削って金を得た。危ないことに手を染めるたび、組から支払われる報酬は増えた。それで妹を学校に行かせてやれたし、たまには上等な服を買ってやるぜいたくもできた。妹のためなら、汚れ仕事などいくらでもできた。この世に遺されたたったひとりの愛する人のためなら、命などすこしも惜しくなかった。
 だが、左馬刻もただの18歳のガキだった。ガキでしかなかった。
「なあ、左馬刻」
 退紅に呼び出された左馬刻は、なぜ自分が組のトップの前にいるのか分からなかった。
「オヤジ、俺になんかようか」
 敬語は使わないことにしていた。わざと不遜になることで、左馬刻は自分を大きく見せようとしていたからだ。このころの左馬刻は、生存するために生きていた。生きてさえいれば、妹に金をやれる。金があれば、妹を真っ当な世界で生かしてやることができるのだ。
「お前も18だな、と思ってな」
「それがどうした?」
 退紅は静かに席を立った。付き人が、ぞろりと怪物のように動く。左馬刻は、自分がのっぴきならない事態にまきこまれている事を悟った。だが、怯えを顔にだしてはいけなかった。恐れを見せれば、相手に呑まれると左馬刻は知っている。
「18だ。もう貴様は〝こちら側〟の人間だろう」
 暗に、ヤクザになれと退紅は言っていた。なってしまえばもう戻れないことくらい左馬刻は分かっていたが、ここで断れば一切仕事を貰えなくなることも、また自明だった。
「仕事だってんだろ。俺様になんかあるなら早くしてくれ、合歓が家に帰る時間だ」
「ああ、すまんな。これをやろうと思ったんだ」
 退紅は、着物の袖から黒光りするピストルを取り出した。左馬刻はぎょっとして、退紅の顔を見つめる。
「左馬刻。今から、あいつを撃て」
 冷や汗がどっと左馬刻の背中に吹き出た。握らされたグリップが急に重く感じられる。退紅は、試しているのだ。左馬刻が、人を殺せる人間かどうか。
 確かに、危ないことはなんでもやった。だが、左馬刻はまだ人を殺したことは一度としてなかった。退紅の部下によって目の前に突き出された、目隠しをされた誰とも知れぬ男を見下ろす。今から、こいつを殺さなければならない。
「撃てぬか? 小僧」
「……いや、撃てる。撃ってみせる」
 そうでなければ、合歓を守れないのだ。左馬刻は、ピストルの照準を男の頭に合わせる。そして、震える指で引き金を引いた。
 
 ・・・
 
「きみ、大丈夫か?」
 声をかけられたことに、左馬刻ははじめ気づかなかった。イケブクロの路地裏でげえげえと吐いている非行少年に声をかけるやつなど、いないと思っていたからだ。
 蒼白な顔をあげれば、赤毛を短く切ったサラリーマンがしゃがんでこちらを見ていた。安っぽいリクルートスーツだから、おそらく新卒の若手だろうと思われた。
「大丈夫だ……。ほっとけ」
「でも、体調が悪そうだ。あ、これ……俺の飲みかけだけど、水飲めよ」
 左馬刻がにらみつけても、そいつはなぜだか逃げることはしなかった。とんだお節介野郎だ。そう思えど、久々にシャバの人間と触れあって嬉しいという気持ちは確かに左馬刻のなかにあった。
「……ありがとよ」
 ペットボトルを受け取って、ごくごくと飲み干す。まだピストルの引き金を引いた感覚が指に残っていて、いやな感じだった。左馬刻はそれをごまかすように、手を握ったり開いたりしていた。
「きみ、ほんとうに平気か? ひどい顔してるぞ。病院につれていこうか」
「別に、いい。金もねえし、妹が家で待ってる」
「そうか。怪我とかはしてないみたいだけど、どうしたんだ?」
 とっとと去って欲しいという態度を左馬刻がとっているにも関わらず、サラリーマンはスーツの裾が汚れるのも構わず相変わらずしゃがんで左馬刻の様子を伺っていた。クソみたいに善良なやつだ、と左馬刻は嫌になる。こういうやつほど、貧乏くじを引かされることを左馬刻は知っているからだ。
「どうしたもこうしたもねえよ。ただちょっと嫌なことがあっただけだ。テメエこそ、俺なんかに構ってないで会社に戻れよ」
「アハハ、それが。会社やめたんだ」
 青年は恥ずかしそうに頬をかいた。辞表をつきつけてきたところだという。やせぎすの見た目にしては思ったより血気盛んな若者らしいと左馬刻は相手への評価を見直す。
「上司殴っちゃって。でも仕方なかったんだ。大事な友達を馬鹿にされたから、どうしても手が出てしまった」
「ふうん。ダチのために体張れるっていうのは、いいことじゃねえか。どうせ相手もクソ上司なんだろ。会社辞めて正解だろ」
 左馬刻は、ぽつぽつと話す相手のことを妙に気に入り出していた。いつの間にか笑っている自分に気がついて、笑ったのなんか久しぶりだと感傷的になる。さっきまでピストルの発砲音に苛まれていたというのに、笑えている自分が不思議だった。左馬刻は自分でも無意識に、「名前は?」と問いかけていた。
「観音坂独歩」
 もう要らない名刺だけど、と独歩は左馬刻に名刺を差し出した。ごろつきに名刺なんか渡して、悪用されたらどうするつもりだと左馬刻は苦笑いになる。
「きみは?」
「左馬刻。碧棺左馬刻だ」
「左馬刻くん」
「呼び捨てでいい、別に。あんたより年下だ」
 いつの間にか独歩も左馬刻といっしょになって路地裏に座り込んで並んでいた。左馬刻のことも心配なのだろうが、もしかしたらこの青年も話相手が欲しかったのかもしれなかった。
「吐き気は大丈夫か?」
「もう平気だ、おかげさまでな。テメエのそのバカ明るいツラ見てたら、どうでもよくなった」
 どうでもよくなった。ピストルの音も、飛び散った血潮も。指の震えも全部。善良そのものの独歩が左馬刻に笑いかけた、たったそれだけのことでだ。
「そっか。俺も、きみに話を聞いて貰えたからちょっと心が軽くなった」
 そうやって、独歩ははにかんだ。その微笑みは、記憶のなかでもはや薄れてしまった左馬刻の母のものによく似ていた。母さん、と左馬刻はつぶやく。それはあまりに小さいものだったから、雑踏に紛れて独歩の耳には届かなかった。
「そういえば。最近、映画を見たんだ。スーツを着ると、たちまちヒーローになるサラリーマンの映画」
 独歩は、ふと思い出したというふうに左馬刻に話した。ヒーロー映画なんか見て子どもっぽいなとからかえば、独歩はすこし拗ねたように、「でも、良かったんだよ」と主張した。
「俺、それ見て思ったんだ。立派な社会人になれるようにって、せめてスーツを着ている時だけは」
「それで、上司殴って会社を辞めた?」
「だって、スーパーマンならそうするだろ」
ネオンブルーの目が、夢と希望に輝いていた。左馬刻は、あまりにも独歩が眩しかったものだから、目をそらした。あまりにも普通で、善良で、左馬刻には無いものばかり持っていた。
「なあ、左馬刻。もうそのシャツは汚れてるだろ。少ないけど、これで服でも買えよ」
「は? 俺様は施しなんか貰わねえぞ」
「いいんだよ。俺がただ偽善やりたいだけだから」
 独歩は数枚の紙幣を左馬刻に握らせると、腰を上げて砂埃を払った。それで、最後にこう言い置いた。
「服を着替えるだけで、気分ってきっと変わるからさ」
「おい、ちょっと、待てよ」
 独歩に置いていかれた左馬刻は、しばらく呆然としていた。なんて自分勝手なやつだろう。紙幣を握りしめて、舌打ちをする。だが、その身勝手さで救われたのも事実だ。
 二度は会わないだろう、と思うと少し寂しかった。左馬刻は渡された名刺をポケットに大事にしまうと、服屋にむかって歩き出した。買うものは決めた。黒いレザーのジャケットだ。
 ピストルの音はもう思い出せなかった。

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