献身の果て
(ふみいお ふみやのことが怖いけど愛してしまう依央利)
ハウスメイトの伊藤ふみやのことは好きか嫌いかで言えば好きだ。しかし、怖いか怖くないかで言えば、圧倒的に怖いという感情が勝つ。なぜなら、彼には『やっていいことと悪いことの区別がつかない』からだ。
けれども、本橋依央利は彼と奴隷契約を結んでいるので――とはいえそれの捺印を前向きに自発的に迫ったのは依央利の方だが――彼の要求を断る権利はない。だから、もしどんなことを要求されたとしても、それがたとえ常識の範囲外の命令だったとしても、依央利が断ることはできないだろう。
それが依央利にとっては恐ろしかった。依央利は奴隷であって、自殺志願者ではない。しかし死ねと言われたら、きっと自分は死んでしまうから。そして誰かを殺せと言われたら、きっと自分は殺してしまうから。自分をすり切れるくらいに使ってくれるふみやを好ましく思う反面、彼がそう命令しないかどうか依央利は不安でならなかった。
「テラさんは、不安になることないんですか?」
依央利はテラの髪の毛を丁寧にとかしながら、彼に聞いた。テラは自分の美しい姿を鏡にうつしながら、「なに?」とぞんざいに返した。
「このままでいいのかな、ってなること」
「ないよ。テラくんは自分のことが大好き! 今日も美しい! 最高! それ以外ないっ」
「テラさんはすごいなあ。僕は、自分からは何も出てこないカラッポ人間だから、そういう風には思えないんですよ」
さらさらの髪は今日も自愛の輝きを持ってそこにあった。テラは依央利と奴隷契約を結んでいるハウスメイトの一人で、よく奉仕活動をさせてくれる人間のうちの一人だ。テラは自分自身のことを愛している。その自尊心の高さが依央利にとってほんの少しうらやましかった。(大概の場合、呆れているが)
「ふうん。依央利くんは面倒な性格をしているよね。自分を愛してあげたらそれでいいじゃない。欠点があるとしても、自分の欠点すらも、僕は愛すよ。テラくんかわいい! 欠点のある姿も美しい! ああ!」
ナルシズムに浸って恍惚としているテラの髪をきれいにセットすると、依央利は「そうできたらいいんですけどね」と柔和に笑った。そして、本当にそうできたらいいんだけど、となにも生み出せないカラッポの両手をじっと見た。命令されるだけがとりえの、なんにもない手だ。
「依央利」
低い声が、依央利を呼んだ。今一番来て欲しくて、それでいて来てほしくない相手だ。依央利が振り向くと、オレンジのつなぎをルーズに着こなしたハウスメイトが、感情の見えない瞳で依央利を見ていた。
「ふみやさん」
「悪いけど、洗濯物。洗っといて」
「はいはい~! そんなのお茶の子さいさいですよ!」
ちょうどテラの髪をとかしおわったところだったので、依央利は元気に返事をした。どんなにこころでふみやのことを恐れていても、それは表にだせない。だすようなへまはしない。ああ、この人の命令が洗濯物でよかった、と安堵する自分を無視して、依央利はふみやの元へ向かった。
「それから、なんか甘いモンつくってくれ」
「はい!」
「あと部屋の掃除も頼む」
「ワン!」
「自転車の手入れも」
「ワンワン!」
しかしながら、そうだとしてもやはり依央利はふみやが好きだ。自分をすり切れるくらいに使ってくれて、好きにしてくれる。奉仕活動を壊れるまでさせてくれるのは、このシェアハウスのなかでふみやだけだから。その先に、いつかやってくるであろう破滅があったとしても。ついていきたいと思った。
壊れるよりも、買い換えられてしまうほうが怖い。家電製品だって、きっと同じ気持ちだと思う。だから、本橋依央利は壊れるまで使われ(愛され)たかった。
おわり
まちがいあったらすいません