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​ああその瞳は輝いて

​​(寂独)

 ブロン何錠で空を飛べるか考えて、計算したらあまりにも量が多過ぎるのでやめたんですと独歩が虚ろな目で言った。
「それに、空を飛ぶならレッドブルで十分だし」
「風邪薬も栄養ドリンクも、摂りすぎは体によくないですよ」
「そうですよね。そうでした」
 神宮寺寂雷は神を信仰したことはなかったが、この目の前で鬱屈としたことを述べる観音坂独歩という青年には神性がある、と考えていた。
 本人に言えばこんなしなびた中年になにを仰ることですかと一笑するだろう。
「もうクソッタレですよ。僕がなにをしたっていうんでしょう、課長は俺を人間以下の畜生だとでも思っていやがるのか」
「君のところの課長は、なんというか。あまり賢明な人ではないようだね」
「そうですね。ああ、先生のほうがよほど神様みたいですよ」
 そうして長い前髪の隙間からあおの瞳を覗かせて、まるでなにか素晴らしいものを見るときのように独歩は目を細めた。
 だが、神は君の方だよ、と寂雷は言わなかった。
「そんないいものではないですよ、私は」
 代わりに寂雷はやんわりと独歩の崇拝じみた意見を否定した。神であれば、この手は血に汚れていないだろうから。神であれば、独歩のように人を憎むことなく生きていられただろうから。
 寂雷は、件の課長が事故で病院に運び込まれたとき、「無事でよかった」としんからほっとした顔をした独歩を知っている。
 寂雷は、医療機器に細工をされて不当に懲戒解雇になりそうになっても、心のそこでは誰も責めなかった独歩を知っている。
 知らぬ阿呆が彼をどう評価するかなど寂雷はどうでもよかった。寂雷にとって、彼は正しく神であった。
「先生がご自分をそうでないと思っていても、僕にとってはそうなんです」
 そっくりそのまま君に返すよ、と寂雷は云わなかった。代わりに、ひとつ話をした。
「そうか。じゃあ、マリア観音というのはね、独歩くん。君のようだと常々私は思っているんですよ。表面は観音像のようだが、マリアとして信仰される隠れキリシタンの像」
「それが僕だと、そう仰るのですか」
「君は自分をくたびれた中年といいますが、私にとってはそうではない。そう見えるのはカモフラージュだ、ということです」
 寂雷はぱさりと診察室のデスクに独歩のカルテを置くと、両手を祈るように組んで、独歩に頭を垂れた。
「先生?」
「君が前にいる限り、私は後ろに立ちましょう。君の傷は、私が必ず癒しましょう」
 アヴェマリアの歌詞が、寂雷の脳裏に浮かぶ。サンタ  マリア  穢れし我を、哀れみたまえ。
 寂雷は呆けた顔をした独歩を、そのまま自分の腕のなかに引き寄せた。細い骨ばった体を抱くなど、寂雷には容易だ。
「独歩くん。私の傍に。生くるときも、死すときも」
 独歩はしばらく寂雷がなにを言っているかわからない様子であったが、ややあって、寂雷の頭をそっと撫でた。それは洗礼を受ける殉教者の光景であった。

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