クローンと踊る
(ひふど クローン独歩とひふみ スペシャルサンクス:ふにょすけさん)
クローン(clone)
1 一つの細胞または個体から、受精の過程を経ず、細胞分裂を繰り返すことによって生ずる細胞群または個体。全く同一の遺伝子構成をもつ。栄養系。分枝系。
2 複製。本物にそっくりの模造品。本物と同等に機能する代替品。
(デジタル大辞泉より)
絶望は歩いてやってきた。
一二三が帰宅したすぐあと程にインターホンを鳴らし、現れた訪問者があった。こんな時間に誰が、と疑問に思いつつ、一二三がドアを開けると、男が一人茫洋とが立っていた。朝日を背負い、うつむいてその表情は見えない。ただ、そのよれよれのスーツとぼさぼさの頭はどう考えても、一ヶ月ものあいだ行方をくらませていた幼馴染だった。
「独歩?」
震える声で、一二三はその名前を呼んだ。イケブクロの萬屋に頼んでも、ヨコハマのヤクザに頼んでも、警察を呼んでもどうにもならなかった失踪中の幼馴染が、ふらりと帰ってきたのだ。こんなに嬉しいことはない。
だのに、ああ。現実は非情で、残酷で、最悪だ。独歩のようななにかは、一二三が欲しかったものを目の前からとりあげるみたいに、〝本人なら絶対にそうしないであろう〟満面の笑みで、「ひふみ」と舌っ足らずに返事をした。
それは、一二三が独歩にこの人生で一度も言われなかったような甘い声色だった。
・・・
寂雷は、悲しそうな顔をして「彼は独歩くんではありません」と一二三に言った。
「クローンです」
「クローン」
一二三が寂雷のことばをオウム返しにすると、寂雷は苛立ちを隠せない様子で「独歩くんの細胞を使って、コピーを作ったということです」と説明した。
「こんなばかげたことができるのは、中央区の研究所しかありません」
「独歩は中央区にいる、ってことですか」
「見つからなかったのも納得です。外部の人間が、中央区の内部情報にアクセスなんかできるはずがないんですから」
寂雷はぐしゃ、と長い髪をかきむしって、常ならぬ様子で「許しがたい……」とつぶやいた。それを、一二三の隣で座らされている独歩のクローンは不思議そうに見ていた。
「ひふみ。せんせいは、泣いていますか?」
「独歩、少し黙って」
「うん」
独歩のクローンは、スマホに搭載されたAIの出来損ないのようなしゃべりかたをするが、一二三の言うことは犬のようによく聞いた。洗濯物をなんど言い聞かせても裏っかえしにしている独歩とは思えない従順さで、クローンは一二三の言うことに従って黙った。
寂雷の推測では、独歩は中央区に幽閉されており、なんらかの実験に使われているのだろうということだった。独歩のラップアビリティ『バーサーカー』が欲しかったのかもしれなかった。独歩のクローンにそれを聞いても、彼は「しりません」と言うばかりで、独歩の情報は得られそうにもなかった。
・・・
仕事に休みの連絡を入れて、一二三は独歩のクローンを家につれて帰った。つれて「帰った」と表現していいかさえ一二三は分からなかった。
ぐったりとしながら自宅のポストを空けると中央区からの手紙が入っていて、親展と判子が押されたそれを一二三は乱雑に開けて急いで読んだ。
「実験に使用した観音坂独歩様を、遺伝子レベルでお返しします」と冷えた明朝体で書かれた一文を見て、一二三は反吐が出そうになった。
「本人を返せよ……」
ぐしゃり、と手紙を握りしめて、一二三は怨嗟の声をあげた。そうすると、となりのクローンが途端に困った表情をして、「ひふみ、おこっていますか? こわいです。笑っている方が見たいです」と言う。黙ってろ、とは言えなかった。この独歩の複製には、何の罪もないからだ。
「ああ、ごめんな」
一二三が謝ると、独歩のクローンはニッコリ笑った。それはやはり独歩からは一度として向けられたことがないような無邪気で愛らしい笑みだった。やりきれない気持を抱えて、一二三は部屋に戻った。
一緒に食べる相手がいないんじゃ、やりがいもなくて食事を作る気にもなれなかった。いや、厳密には〝相手〟はいるが、そいつのために積極的になにかしてやろうという気持にはどうにもなれなかった、ということだった。
クローンは何故かいつもにこにことしていて、これが独歩だっていうんだったらもっと陰鬱な顔させろよ、と中央区に文句を言いたいほどだった。だが、本人に「もっと暗い顔できないの?」と言葉の暴力を振るう気にはなれない。そんな悪人になれたなら、こんな気持になっていないだろう。
「ひふみ、まだ怒っていますね」
「敬語、いいから」
「わかった」
独歩でないにしろ――独歩の顔をした相手に敬語で接されるのは気分がよくなかった。独歩じゃないとは分かっているけれども、独歩の顔をした相手に全く他人のような対応をされるのは、今の一二三のメンタルには堪えた。
「なあひふみ。悲しいか?」
ソファにぐったりと倒れた一二三のあたまを膝の上にのせた独歩のクローンは、まるで独歩のように一二三を気遣った。
「俺じゃだめだよな、ごめんな」
一二三の頭を撫でながら、クローンは謝った。敬語でいいと言ったら、とたんに独歩っぽくなってしまった。だんだんと独歩に近づいていくクローンが、一二三には恐ろしく思えた。でも、自分で言った手前だめと言うのもはばかられて、「いいよ、別に」と投げやりに返すしかなかった。
このまま、この偽の独歩と一緒に暮らしていくのだろうか。独歩のために用意したこの物件が、こいつのための生活場所になってしまうのはいやだった。でも、独歩の声で、独歩の顔で、「一二三は悪くない。ごめん」と言われると、なんだか抱きしめてやりたくなるような気もして不思議だった。
「泣いてもいいぞ」
そう、独歩のクローンのクソ野郎があまりに不器用に一二三の頭を撫でるものだから、その日、一二三はわんわんと泣いた。泣いても独歩が返ってくるはずもありやしないのに。