ミッドナイト・シャドウ
(いちへし)
(現パロ・付き合っていることを弟に知られたくないいち兄×わざと接触して怒られたがるはせべくん)
「前田、暗くなる前にかえろうか」と、いち兄が言うので、僕はみんなにさよならをして公園をでました。
ゆうやけがまぶしくて、後ろを向けば私たち二人の影がどこかへ吸い込まれてゆきそうなほどにながくながく伸びていました。僕は影の中になにか恐ろしいものが潜んでいるような気がして、急に怖くなって、視線を陰から反らしました。
そして、僕はもっとおそろしいものを見ることになったのです。
「いち兄」
僕は、いち兄の手をぐっと引っ張りました。僕の視線の先には、電柱の陰にひっそり佇む男のひとがいて、じっとこっちを見ていたのです。僕はそれがひどく恐ろしくて、でも口にするのはもっと恐ろしくて、何も言えずにいち兄にすがりました。
けれど、いち兄はなにも気付いていないような顔をして、夕飯は何がいいかと僕に聞きました。いち兄らしくない、と思いました。あんな不審な男の人がいたら、いち兄は真っ先に気付いてくれると僕は疑っていませんでしたから、あれは僕だけに見えているのかもしれない、と末恐ろしくなって、早く帰りましょうといち兄を急かしました。いち兄は様子のおかしい僕のことなんかてんで気にも留めていないようでした。
・・・
家に帰っても、まだ窓の外に誰かいるようなきがして、僕はなかなか眠れませんでした。
兄弟がみな寝静まっても、僕はらんらんと冴えた目を光らせて、絶え間なく流れる冷や汗を拭っていました。
僕はいち兄に寝かしつけてもらいたくなって、隣ですうすうと寝息を立てている平野を起こさないように慎重に布団から出ると、いち兄の部屋へと向かいました。
いち兄の部屋は一階のいちばん奥まったところにあって、几帳面ないち兄のことですから、いつも扉はしまっていました。もしかしたら、いち兄も寝ているかもしれないと僕は思って、わざと電気をつけずに、暗い階段や廊下を恐怖と戦いながら歩きました。
しかし、ここからがもっと恐ろしかったのです。
僕が一階に降りると、いち兄しかいないはずの部屋から、扉越しになにやら言い争うような声が聞こえてくるのでした。どろぼうかもしれない! 僕は、ひゅっと息を飲んで、抜き足差し足で部屋のそばまで行きました。案の定、今日も扉はきちんとしまっていて、中の様子は見ることが出来ません。
意を決して扉に耳を当てると、いち兄と知らない男の人の声がしました。僕はやっぱり、どろぼうかもしれないと思って、そっと、ほんのすこしだけ扉をあけて中を覗き込みました。
今思えば、それがよくなかったんだと思います。
そこには、目を疑うような光景が広がっていました。部屋の中は明かりがついていて、中が良く見えました。
そこでは、いち兄がひどく怒った様子で、知らない男の人を床に押し倒していたのです。
・・・
「私、言いましたよね。長谷部さん」
いち兄は聞いたことが無いような冷たい声で、長谷部という男の人に声をかけています。男の人はだんまりで、ただただいち兄のされるがまま、床に倒れていました。
「弟たちのまえでは姿を見せぬようにと、何度も、何度も、申し上げたでしょう」
責めるような声色でした。そこで僕は、その長谷部という男の人が、あの夕方、電柱の裏に立っていたゆうれいだということに気が付きました。
なんで、いち兄と、あの人がいっしょにいるのでしょうか。そして、なぜいち兄はそんなに怒っているのでしょうか。僕にはわかりませんでした。
「でも、お前は入れてくれたじゃないか。弟たちが寝静まったら、すぐ俺なんかを引き入れる。いけない兄さんだな」
長谷部という男の人は、はは、と笑い声をあげて、パン、と頬をいち兄にはられました。僕は、そんな乱暴ないち兄を見るのは初めてで、ひゅっと息を飲みました。
「私はいい兄さんでなければなりませんので。そんな馬鹿らしいことをいわないでいただきたいですね」
「男と付き合っている兄さんは、よくない兄さんか」
「そうですとも」
「そうだなあ。俺をこんな風にして喜んでる兄さんなんか、普通見たくないだろうな」
「だから、弟たちがいるときに近づかないでいただきたいと」
「わかっているとも」
わかっているとも、と言った男のひとは、全然分かっていない様子で、「わかっていても、言うことを聞くとは限らん」とくすくす笑いました。それがなんとも化け物じみていて、この人は得体のしれない人だ、と思いました。
「どうやったら、言うことを聞いて下さいますか。しつけが必要なんでしょうか」
「しつけてくれるのか。それは嬉しいな。俺は、お前にひどくされるのが好きだ、ァ、ァ……カ、は……ぁ、ぁ」
「本当に、本当にどうしようもない人ですな。私に、こうやって、首を絞められたって、喜ぶんですから」
目の前で広がるひどい現実に、僕は思わず、目をふさぎました。いち兄が、他のひとの首を絞めるだなんて、そんなことをするようには思えなかったからです。これは悪い夢なのでしょうか。あの、やさしくておだやかないち兄が、他人にらんぼうをして、にこにこと笑っているだなんて。
僕は耐えきれなくなって、扉をそっと閉めようとしました。元より、子供の目が片方だけ覗いているような隙間ですから、音を立てずに閉めることなど、かんたんです。幸い、いち兄は私が覗いているということに気付いていないようでした。
しかし、閉める瞬間、首を絞められてのけぞったあの、長谷部という男のひとの、かっと見開かれた紫の瞳と、僕の瞳がかちりとあってしまったのです。あのひとは、私が見ているのに気付いたのでしょうか。かすれた声を上げながら、その口がやんわりと弧を描いたのを、僕は忘れられそうもありません。
・・・
逃げるように飛び込んだ布団のなかで、僕はもんもんといろんなことを考えました。あの男のひとは何者なのでしょうか。なぜ、いち兄はその人と付き合いがあるということを、僕たちに隠すのでしょうか。そして、あんな夜更けに隠れてなにをやっているのでしょうか。
しかし、それをいち兄に聞くのはためらわれました。なんだか、あの恐ろしくて乱暴ないち兄が出てきてしまいそうで、嫌だったのです。いち兄はあくまで、僕たちのまえでは、優しく、頼れる兄でありましたから、そんないち兄に暗く、どうしようもない部分があるということを、どうしても認めたくありませんでした。
僕にできることといったら、明日のいち兄に、おはようございますと元気に挨拶できるように、このことを早く忘れること。それだけでした。