ふぬけのはなし
(いちへし)
路上に「フ」の字が落ちている。
比喩でもなんでもなく、文字通り片仮名のふが落ちている。
「なんだ、これは」
長谷部はこの不可解な現象を前に、呆然として呟いた。
大学に行く途中だったが、突然目の前に落ちていた非日常に好奇心に釣られて手を伸ばし拾い上げる。確かに正真正銘「フ」の文字だ。片手で持つには大きいが、見た目ほどは重くない。恐らくプラスチック製だろう。
「こんなもの、どこから……」
ぶつぶつと独り言を言いながら周りを見渡す。端から見たら立派な変人だったが、長谷部は気付くことはない。くるくると両の手で弄びながら左側に目をやると、丁度建物から出てきた人間と目があった。
「あ、」
「ん?」
「それ……」
腕捲りをした白いシャツにジーンズ、"AWATAGUCHI"と大きくプリントされた赤色のエプロン、同色のバンダナを身に付けたラフな格好の男は、長谷部の手元を指差した。
「これか?」と問えば、「多分それ、うちのです」と答える。そういえばここは花屋だったか。長谷部が頭上を見上げると、案の定店の看板の一部が取れて「ラワーショップ」となってしまっていた。
「ううん、これでは何屋かわからんな」
「すみません。そこ、取れやすくて……」
「そうなのか?」
「はい。以前も何度かお客様に激突したことがありまして……。は、貴方は大丈夫でしたか!?」
「大丈夫だ。俺が通った時にはもう落ちていた」
「そうですか……。良かった、慰謝料でも請求されたらどうしようかと」
「おい、俺がそんなことをする様に見えたのか?」
「いえそんなわけでは」
まるで長谷部が悪党であるかのような店員の物言いが気に障り、不愉快な心情が顔に出る。きりりとつり上がった眼で睨み付けると、店員は言い訳を始めた。腹の立つやつ、と長谷部は憤慨する。
「俺はそれくらいで金をせびるような器の小さい男ではない」
「そうですよね。長谷部さんは、その様な人ではありませんよね」
「そうだ。俺はそこまで狭量ではない」
ふん、と鼻を鳴らして胸を張ったところではたと気付く。何でこいつが自分の名前を知っている? もしかして知り合いかと思ってまじまじと見るが、この爽やかげな好青年が友人の少ない自分の知り合いとは到底思えない。名札に書いてある「粟田口 一期」という名前にも覚えはない。
とはいえ、長谷部は彼のように名札を付けている訳ではないから初対面なら名前を知りようもない筈だ。しばし考えたが、早々に降参することにした。何故自分が他人の為にこれ程まで頭を悩ませなければならないのだ、というのが彼の言い分だった。
「おい、何故俺の名前を知っている」
「え、私が分からないのですか?」
「知らないから聞いてるんだ」
「ほら、粟田口一期です」
「知らん」
「そんな!」
やはり知り合いだったらしい。ひどく傷付いたという顔をする男だが、知らないものは知らないのだから仕方がない。
「英語の講義の時、いつも後ろに座っているでしょう?」
「……分からん」
「三日前、長船さんや鶴丸さんと飲みましたよね?」
「すまん、俺は飲んだら忘れるんだ」
「うう……」
「そんなに悄気るな!」
つい最近酒の席で出会った相手だったらしいが、長谷部が言ったことは本当で、泥酔するときれいさっぱり記憶が飛んでしまうから見覚えがなくて当たり前なのだ。酒を飲める年になってから度々困ったことを引き起こしていたこの体質には長谷部も辟易していた。可哀想だが、こればかりは仕方がないことなのである。
「だって、気付いてすら貰えないなんて」
「世の中そんなものだろう。ええと、粟田口……だな。今覚えた。覚えたから、機嫌なおせ」
「……一期です」
「一期」
「はい、長谷部さん!」
一期はとたんに元気になって、笑った。それがなんだか犬のようで、すこし可愛らしかった。