その背中を見ていたい
(ふどへし)
あかあかと燃える本能寺を前にして、不動行光は泣いていた。
「ああ、ああ、信長様………………ひっく……信長様…………」
すすり泣く彼の嗚咽の合間にも、人間の命はひとつ、またひとつと消えていく。風の前の塵がたやすく吹きとばされてしまうように、本能寺の中を右往左往する人間どもはみな煙と炎に巻かれて死んでいった。ばかみたいにあっけなく、そして芝居のように劇的に。
なぜ、人の身を得てまでこんなものを見せられなければならないのだろう? なぜ一度諦めたものを、わざわざ目の前でまた諦めさせられて、こんなに苦しい思いをしなければならないのか。しかも、今度は「救える」立場であるというのに! もう無力な「ただの物」ではない不動行光は己の自由に動く手足を呪った。
「もう俺たちに出来ることはなにもない」
しゃがみこんで泣く不動に、冷たく言い放ったのはへし切長谷部だった。不動は、そいつをキッと強くにらみ返した。じゃあ俺みたいなダメ刀をこんなところに連れてくるな、とさえ思った。しかし長谷部はそんな不動の繊細な気持ちなど知らぬ顔で、「本能寺はどうしたって燃える運命なんだ。焼け落ちるのが、正しい歴史なんだよ」と続けて言った。
正しい歴史がなんだ! と不動は言ってやりたかった。そもそも、不動は顕現してから日の浅い刀剣だ。今の主であるところの審神者から、正史を脅かす遡行軍を倒してくれまいかと昨日の今日に頼まれたばかりだ。そんな右も左もわからない不動が真っ先に連れてこられたのがここ、本能寺だった。
本能寺はあのときのまま、燃えていた。火はごうごうと燃え盛り、建物を今まさに飲み込まんとする勢いだった。ただ違ったのは、そこに幽鬼のような物たちが跳梁跋扈していたことだ。共に行軍していた髭切が、「あれが遡行軍さ。主曰く、あれを切るのが僕らの仕事らしい」と不動に教えた。いくさ自体はものの数分でかたがついた。大太刀の石切丸がいたこともあり、練度と経験が皆無の不動がすることはなにもなかった。ただ、この光景を見せられただけだ。
悪趣味だ、と不動は嫌悪した。泣きながら、なぜ自分がダメ刀であることを、織田信長という、だいじな主君を守れなかったことを再認識させられなければならないのか、そればかりを考えた。
「お前は、ほんとうに、信長様がどうなってもいいと思うのかよ」
「ああ、どうでもいいね。お前と違って、俺は捨てられた身だ。いい気味だとすら思っている」
「聞いた俺が馬鹿だったよ……」
不動は長谷部との対話を早々に諦めた。いい気味だなんて、どの口が言えるのか理解しがたかった。信長様のもとにいれば、こいつだって、俺の気持ちがわかったろうに。歪んでいる、と不動は長谷部のことをおそろしく思う。
長谷部は、燃える本能寺の前にして、特になんの感慨もわかないという表情をしているように見えた。冷徹な藤の瞳が、炎を反射してきらきらと輝いていて、それがどうにも化け物じみている。不動は、いつか自分もこんな風になってしまうのだろうかと怯えた。それか、長谷部のこの態度が生来のものかどちらかだ。どちらかというと後者だといい、と不動は願った。
「人の生は歴史の流れからすると一瞬だ。生まれたらいつかは死ぬんだよ。織田信長も例外じゃなかったってだけだ」
「……それにしたって、ここで死ななくたっていいじゃねえか。俺は信長様に、こんなところで死んでほしくなかった」
不動は素直な気持ちでそう言った。けれど、長谷部は動じなかった。彼は凪いだ表情で、「歴史を変えるというのは、その人を殺すのと同じだ」と返した。
「織田信長を今生かすことは、織田信長という存在そのものを変えてしまうということだ。変わってしまった「それ」を、織田信長と言えるのか? 存在を消すのと同じではないのか。存在を消すのと同じことを、お前はするのか?」
不動はその脅しを解せなかった。なんでそんなことを言うのだろう? とすら思った。織田信長という存在そのものが変わる、ということがどういうことかさっぱりだった。ここで織田信長が死ななければ、織田信長が消えるのと同じだというその理論は、少し飛躍しすぎているというふうに感じた。
「……お前は、信長様のもとにずっといた方がよかったかもな」
そうしたら、俺のつらさも分かったろうに。皮肉のつもりで、不動は長谷部に向かって吐き捨てた。その間にも本能寺を取り巻く火は大きくなって、バキバキ、というどこかで建物の一部が倒壊する音がした。この火のなかでもう織田信長は死んでいるだろう、と思われた。
「俺は、かもしれない、という話は嫌いだがな」
嫌いだと言う割に長谷部は、さほど攻撃的でない声色だった。もしそれが万が一叶うとしても、二度とごめんだね。と笑って続けた。
「それに、俺の主は今の主さ」
お前もそうだろう、という風な言い方だった。確かにそうではある。そうではあるけれども、やはり、前の主のことは忘れられそうもない。先日不動を歓待した、毒にも薬にもならないような、これといって特徴もない審神者なる人間には気の毒ではあるが。
それはそうとして、やはり本能寺は燃えていた。それだけがまっさらな真実であり、取り返しのつかない現実だった。不動は黙ってしばらくそれを見ていたが、「全軍、帰投しろ!」という膝丸の号令により、後ろ髪を引かれるような思いで本丸へと帰ることになった。
2
部隊が本丸へ帰るやいなや、審神者がわっと飛び出してきて、その無害そうな顔をいっそかわいそうになるくらいに悲しげに歪め「ほんとうにすまない」と不動に言った。しかし一方で、仕方がないのだとも付け加えた。不動が何故だと聞く前に、すべての刀は試されなければならない、と審神者は言った。すべての刀は、顕現と同時に、ゆかりの時代、場所へと連れていかれる。そこで、歴史修正主義者との戦いにふさわしいかどうかを判断するのだという。
「ごめんね。でも、君が寝返ったりしたら僕らも困るんだ」
髭切が、あまりのことになにも言えずにいる不動の肩を優しく叩いた。この刀はひょうひょうとして掴みどころがない。仙人のようだ、と不動は思った。
「まあ、君はなんにせよ合格したんだ。歓迎するよ。主も、僕たちもね」
あんな手厚い歓迎のしかたがあるか、と不動は思った。本能寺を取り巻く炎と、あの時の長谷部の冷たい瞳を思い出す。反射的に視線を走らせ紫色の後姿を探すと、馬屋の前で膝丸といっしょにいるのが見えた。何事かを話し込んでいるようだったが、きっと戦のことだろう。俺の主は、今の主さ」という言葉が頭をよぎる。そうして長谷部は、いままでずっと「今の主」のために精根つくして働いてきたのだと思われた。織田信長のことなんか忘れて。
嫌だな、と不動は感じた。自分もいずれはああなってしまうのか。本能寺を前にして何の感情も見せなかった長谷部を見て思ったことを、今一度思い返す。
「おお、不動。戻ったか!」
「ああ?」
「俺だよ、俺。俺っち、薬研藤四郎」
にんまりと相好を崩す、自分より背の低い少年の姿をした刀剣は薬研藤四郎と名乗り、織田ににいたと言った。不動もそれでああ、あの、となんとはなしに記憶があって、懐かしさを覚えた。
「せっかく縁ある刀が出会ったんだ。サシで飲もうぜ、いいだろう?」
誘いを断る方便はなかった。不動はここに来たばかりでなにも知らないし、だれかそういう頼れる相手を探したほうがいいと自分でも思っていたところだったからだ。相手はできれば知った顔が良かった。しかしそれは絶対に長谷部ではないというのは先の出陣でよく分かっていたことだったので、なにかあったら薬研に頼ろう、と不動は決めた。
近侍として審神者に侍っていた堀川国広の言うところによると不動の部屋はまだないということなので、薬研の部屋に呼ばれた。
「悪いな、あんまかたづいてなくて。面倒でついさぼっちまう」
通された薬研の部屋はあまり物が多くなく、簡素さを感じるつくりだった。しかし医務室にもなっているらしく、そこらに点々と救急箱が置いてあるのが目立った。出陣しても手入れ部屋に入るほどではない(ないしは入れない)仲間を手当てしたりすることがあるのだと薬研は教えた。
「そんなに遡行軍ってのは、手に負えねえのかよ。俺みたいなのが呼ばれるくらいに」
渡された甘酒を片手に、不動は言った。不動は自分が、主を守ってやれなかっただめな刀だと思っていたものだから、そんな自分が呼ばれたことは少なからず疑問ではあった。薬研は「ぼちぼちってとこかな」と返した。
「よくもなけりゃ、悪くもない。第三勢力の検非違使が出てきたときはちっとばかし戦場が荒れちまったけど、最近はそうでもねえな。なんつうか、戦力や戦術というよか根気と回数がものを言うって感じだぜ」
「へえ」
「戦況は停滞してるから、お上(かみ)は定期的にこうやって、お前みたいなあたらしい刀剣男士を連れてくるのさ。なにか変わると思ってるんだろうなあ。まあ、実際はいたちごっこに変わりないんだけどな」
お前と同じ部隊にいた、髭切と膝丸は結構最近になって来たんだぜ。兄のほうが先に来たんだがすぐ馴染んで、しばらく今剣と遊んでやっていたっけ。変な刀でさ、弟の名前が言えねえんだ。仲は良いらしいがね。ちびちびと鬼殺しをなめて、しみじみと薬研は言う。
「なあにが面白いか知んねえが、俺みたいな刀を連れてくるなんて趣味悪い。全くよ、その面拝んでやりてえぜ」
「面ねえ……。そういや、お上の面なんか見たこともねえな。大将は管狐のこんのすけっていうのに一方的に伝達を受けるばかりで、とくに何が来るってわけでもねからなあ」
「ヒック、なんだあ? そのお上ってのは、そんなに偉いのか。来もしねえくせして、俺を試して、わざわざ本能寺に行かせてよお」
「お上がなに考えてそうしたかは知らねえが、何か考えてそうしたってのは本当だろうよ」
何を考えていたかなんて、そんなのろくでもないことに決まっている。不動は顔も見たこともない、政府という存在を憎らしく思った。飲んでいたのは甘酒であるはずなのに、不動はすっかり酔いがまわってしまって、「ばかやろう」とぐずった。子供のようにだだをこねたところで、時の政府に口をだすなんてことがいち刀剣に出来るはずもなかったから、どうにもならないことだった。
「みんなはじめはそう言うんだぜ」
酔っ払いの泣き上戸に出来上がってしまった不動の背中をさすってやりながら、薬研は呟いた。こうして不動のように顕現されたこと自体を恨む刀剣男士は少なくない。誰もが、悩み、苦しんできたのだ。薬研が知らないところでもきっとそれは起きている。人間というのは勝手だ。ただの「物」である自分たちをこんな風にしておいて、責任なんてちっともとりはしないのだ。
「はせべもか」
「なんだ?」
「長谷部も、あいつも、ヒック、泣いたか」
あの冷血も泣いたのか、と不動は薬研に聞いた。そういえば、政府の命令でいっしょに出陣したのだっけ、と部隊編成表を思い出す。
「さあなあ。やっこさん、俺っちより先に来てたんだ」
「ふん。どうせ、涼しい顔してたに違いねえや。信長様のことなんか、あいつはどうでもいいんだ」
不動はぶつぶつと愚痴を口にした。長谷部がどうだ、長谷部がああだ。恩知らずの、冷血野郎だ。湧き水のようにあふれる文句は、尽きることがない。
それで、薬研は長谷部がなにか下手をうったのだと察した。口を開けば主命、主命と、もともと不器用な性格をしているやつだ。冗談を言うには向いていないし、だからといって本音で話すには頑なすぎる。それこそ、そのガチガチの矜持というものを折ってやらないと、何も言いやしないのだ。
「まあ、そんなに嫌ってやんなさんな。長谷部の旦那にゃあ、長谷部の旦那の考えがあるのさ」
「俺はそんな考え、理解したくもねえよ……」
薬研は諭したが、不動は意地をはって、ふんとそっぽを向くと丸まってそのままぐうぐうと寝入ってしまった。
3
「ああ、火事だ! 火事だ!」
その叫び声で不動は目を覚ました。慌てて廊下に顔を出すと、もくもくと立ち上る煙が、まるで意思を持っているかのように廊下を這っていてすっかり視界を隠してしまったので、誰かはよくわからない。火事、という言葉に敏感に反応した不動は煙を吸い込まぬように袖で口を覆うと、本丸の外へと転がるように飛び出した。
「主君がまだ中にいるのです! 離して下さい!」
「行くな、前田! もう火が回っている。助からない!」
「主君が苦しんでいるというのに、何もせず見ていろとおっしゃいますか。どうせ鉄くずになるのなら、私は焼け死にます! ああ、主君! この不肖前田藤四郎、今御傍に参ります!」
庭で蹲った不動がゴホゴホとせき込んでいると、先に外に脱出していたと見える前田藤四郎が鶴丸の制止を振り切って、不動と入れ替わるように火の中に飛び込んでいった。
「無茶をするもんだ」
「今のは……?」
「お前は、ああ、新参の。不動行光か。大丈夫か、煙を吸ってはいまいな? あれは、まあ。助けたいって気持ちをくんでやったのさ」
鶴丸は、どこか寂しそうに炎と煙の中に消えていったマントのたなびく後姿の幻影を見た。どうせ死ぬなら、好きにさせた方がいいだろ。とも言った。
「俺たちは審神者の霊力で顕現状態を保てる。それじゃなきゃ鉄くずだ。主が死んでしまったら、遅かれ早かれ俺たちは死ぬんだよ。それなら、最期くらい好きにさせてやったのさ」
「俺たちゃ、死ぬのか」
「来たばっかりで悪いな。そういうこった。君も、わからないか? 主の霊力が、もう感じられない」
ああ、あの人間は死んだのか、と不動はそれで分かった。あの人畜無害そうな審神者なる人間は、炎にまかれて焼け死んでしまったのだと。さすれば、もう自分もここに顕現できる時間は残されていないのだろうと思われた。
「このぶんじゃ、もって数十分だろうな」
けれど、それでいいのだとも感じた。自分はもうここではやっていけないだろうと昨日思ったばかりだったからだ。生まれて数日、もってあと数十分。そんな命だったが、なにも心残りはなかった。こんなダメな刀が生きたところで何にもできないのだから。
そこまで考えたところでふと、長谷部のことが気にかかった。あいつはどうしただろう。織田信長という男を軽視し、いい気味だと言ったあの刀は今の主が死んでしまってどんな顔をするのだろう。死ぬ前に一度顔が見てみたい、と不動は思った。
「あと数十分だ。俺も好きにさせてもらうね」
不動はそう言って、鶴丸と別れた。 鶴丸も「俺も大倶利伽羅が心配だから、探してみるかなあ」と言ってその場を離れた。
長谷部はどこにいるだろうか。火の中でくたばってしまったか。それとも前田のように、死んだと分かっていても火の中に突っ込んだのだろうか。あれだけ今の主に入れ込んでいた男だから、それくらいはするかもしれないな、と不動は思った。
庭をぐるぐると回っていると、案外長谷部の姿は早く見つかった。池の傍の、石の横に座って、長谷部はしくしくと泣いているように見えた。本丸はそのうちにもごうごうと燃えていて、火の熱さが伝わってくるほどだった。なんだ、お前はいかなかったのか。それがとても意外だった。
「長谷部」
不動は長谷部に声をかけた。長谷部はそれに気づくと、目元をごしごしとこすって、なんだとぶっきらぼうに言った。
「どうだよ、主が目の前で焼け死ぬ気分は」
「……なにかと思えば、そんな皮肉を言いにきたのか。馬鹿らしい」
長谷部はあくまでも強気であった。どうせもう死ぬのだから、そんなちっぽけでくだらないプライドなんか捨て去ってしまっても構わないというのに。
「いい主だった。俺をきちんとお使い下さった。主君として、この上ない信頼を寄せてくださった」
「でも死んだろ。お前はそれを裏切ったんだ」
「……うるさいっ! お前に何が分かる!」
「分かるにきまってんだろ!」
それが俺の本能寺での気持ちだったんだから! 不動は叫んだ。するとくらりと眩暈がして、もう立つのもままならなくなり、へたりこんでしまう。霊力がもう少ないのだ。死が近い、そう感じた。打刀である長谷部は不動より霊力の消費が激しいのだろう、すでにぐったりとしてきて、地面に倒れ込んでいた。
「分かったかよ、これが守れないということだ。救えないという絶望だ。これを知ったら、生まれたらいつかは死ぬなんて、そんなおきれいなこと言えるはずがねえだろ! そうだろへし切長谷部!」
不動は今ここで今もう死ぬというときになって、やっと長谷部と対等になれた気がした。あのとき、つまるところ二度目の本能寺を前にしたとき、同じ織田信長公に所持されたことのある刀剣として、目の前で主を失う悲しみを分かってもらえないのが悔しかった。下げ渡されようがなんだろうが、「へし切」と名をつけられていたくらいの刀だったから、愛されてなかったわけがないだろうに、それを否定するような口をきくこの刀が憎らしかった。だから今、長谷部が「救えない」という状況に直面していることが不動にとっては一種の仕返しのようにも思えた。
「なあ、ダメ刀だな。お前も、俺も!」
あかあかと燃える本丸を前にして、不動行光は不思議と笑っていた。その笑顔の、すがすがしさといったら! これを言ってやりたかった。不動はどうしても死ぬ前にこれが言いたかったのだ。お前だって、ダメな刀だ。もしこの先の未来、また同じように誰かに顕現されて、ここに訪れることがあったら。長谷部だって助けようとするはずだ。そうすれば、この冷血だって、歴史の改編者になろうとせずにはいられないだろう。
「そんなことを言うようでは、俺のことなんか何も分かってないな」
長谷部は今わの際にその笑顔を捉えて、皮肉げに口の端をつり上げた。まるで、可哀想なものをみるようなまなざしだった。
「歴史は「そうなって」しまったらもうとりもどせないんだ。本能寺で死なない織田信長は織田信長ではない。そしてきっとここで死なぬ主は、主ではないのさ。死ぬことを悲しく思えど、もし死なないとしたらそれはもう別のなにかで、俺の望むところではないんだ」
なあお前。ここが燃えても、本能寺は燃えるには変わりないんだよ。
不動が聞きとれたのはそこまでで、あとに残ったのはもうものを言わぬ鉄屑だった。
4
そこで不動ははっと飛び起きた。どうも寝覚めの悪い夢を見た、と不動はぶるりと震えた。背中が汗でびっしょりと濡れていて、それがどうにも気持ちが悪かった。
外はもう明るくなっていて、障子の破れから光がさしていた。知らないうちに寝てしまったのだと思われた。勝手に寝た不動を布団へと運んでくれただろう薬研は、部屋には居なかった。出陣の召集でもかかったのだろうか。昨日の酒瓶が袋に詰められて隅に寄せてあったり、敷きっぱなしの布団が起きたときのままの乱雑な様子で横に置いてあったりしたのが、薬研の大雑把な性格を感じさせた。
そんな平凡な光景の中にいてもなお、夢うつつの状態からもとに戻るのは難しかった。火の中に飛び込んでいった前田、諦念の眼差しを以てそれを許した鶴丸、そして凄惨な光景を前に涙を流せど決して「歴史を変えたい」とは言わなかった長谷部。そのどれもが現実に起きたことのようだった。まだまぶたの裏に炎の赤色がこびりついているような気がして、目を擦る。
本能寺で死ななければ、織田信長という存在が織田信長でなくなる。昨日の長谷部も、夢の中の長谷部も、口々にそう言ったのをよく覚えている。しかし不動にはそれがわからなかった。果たして、そんなことがあるだろうか。信長様が生きるという道は、万のひとつにもないというのか。あの炎のなかを生きてしまったとて、それは信長様に変わりがないのではないか。
しばらくぼんやりとしていた不動だったが、突然障子が空いてぱっと部屋が明るくなったことで意識をそちらに向けることになった。
「おっ、いたいた。不動行光、飯だぜ」
廊下からひょいと顔を出し、鶴丸国永がニカッと笑っていた。足音もなく現れたそれに、不動はぎょっとする。
「なんだ、そんなお化けでも見たような顔して。驚いたのか?」
「驚いたっつうか、なんつうか」
不動は返答に困った。まさか、夢で死んだやつが不意に現れたので、本当に自分の妄想のなかの存在が現れてしまったのかと思って怖くなってしまったなど言えるわけがない。だから、「嫌な夢を見てさ、考え事をしてたんだよ」とお茶を濁して立ち上がった。
「ふうん。夢ねえ」
鶴丸はそれを聞いて、興味深そうな顔をした。
「なんだ、夢がそんなに面白れえかよ。そんなことより飯だろ、飯。薬研はどうした? こんなはやくから出陣かあ?」
「薬研は内番仕事で馬屋だぜ。君もそのうちやるさ」
それより夢のはなしをしてくれよ、行きしなでいいから。わざわざ不動が話題をそらしたというのに、どうもそれが効かないようで、鶴丸は話をねだった。
「いい話じゃねえぞ。本丸が燃えたんだ。俺が気づいたときにはもう火が方々に回ってて、それで審神者が死んで、みんな死んだ。そんな夢さ。お前もいたよ」
さっさとその話を切り上げたくて、不動は自然と早足になった。まだうろ覚えだが、厨房は確かまだ先だ。鶴丸は不動のすこし後ろを歩いていたから、方向が間違っていればなにか言うだろうという思いもあった。
「そりゃきっと、どっかで本当に起きた話だろうな」
「は?」
付喪神の見る夢というのは、だいたいがそうなのだと鶴丸は不動に教えた。本当に起きた? あれが? 不動はそれをにわかには信じられず、頭上に疑問符を浮かべてしまう。鶴丸は続けた。
「無数の本丸に、無数の俺たちがいて、生きてるだろ。でもどの俺も、根底的には鶴丸国永という付喪神にほかならないわけだ。 だから俺たちは鉄屑にもどるとき、ぐるっと循環して、本家本元の鶴丸国永という存在に還元される。そのとき、ごく稀にその還元された情報が断片的にあらわれてしまう。それが刀剣男士の見る夢だ。と、いうのが人間様の見解だ」
いつの間にか、不動の足取りは重くなっていた。一転して、鶴丸が廊下を先行するかたちになる。
「あれが、現実……」
火の中に飛び込んでいった前田、諦念の眼差しを以てそれを許した鶴丸、そして凄惨な光景を前に涙を流せど決して「歴史を変えたい」とは言わなかった長谷部。そのどれもが現実に起きたことだったのだ。衝撃的だった。にわかには信じがたいことだ。
しかし一方で、妙に納得もしていた。人間というのは、いつもあり得ないことを可能にしてしまう。海の向こうから銃がやってきた時だって、観測して、分析をして、支配をした。だから、刀剣男士という存在のことだって、それこそ不動自身のあずかり知らぬことまで観測して、分析をして、支配をしているに違いないのだ。
「脅かして悪かったな。でもまあ、普通に暮らしてりゃなんでもないことなんだぜ」
いつ、誰が作ったかわからないが、そういうルールがこの世にある。あるもんは仕方がない。うまく生きるコツは、細かいことを気にしないことだ。鶴丸はそうやって笑って不動を励ました。
「そりゃ、酒がなきゃやってけそうもねえや」
不動は言って、甘酒を煽った。寝ても覚めても現実の影が追ってくるんじゃあ、酒でも飲んで理性を飛ばしていないとまともではいられそうもない。
俺のことなんか、何も分かっちゃいない。夢に見た長谷部の遺言が耳に残っていて、まだ脳に響いている。理解してたまるか、と不動は負けじと心のなかで言い返した。
理解してたまるか。俺は、お前じゃねえんだぞ。
5
「貴方って可哀想ですよね」
宗三左文字が、なじるように言った。長谷部は黙って、畑に生えた草をむしる。宗三の減らず口は今に始まったことではないので、相手にするだけ無駄なのだと知っている。
それは内番の最中だった。宗三も長谷部も、充分に出陣を繰り返して、ここ最近はずっと畑仕事ばかりしていた。夏野菜の畑が豊作で、色のいいものがよくとれた。宗三は無駄口が多く、よく疲れただの、刀がする仕事ではないなどと言った。長谷部が無視しても、宗三はべらべらとよく喋った。これもその延長線上のことだった。
「薬研から聞きましたよ。新入りに、昨日の今日で随分と嫌われてるそうじゃないですか」
「それがどうした。好かれるために生きてるわけじゃないからな」
長谷部のぶっきらぼうな態度に、宗三ははあ、とわざとらしくため息をついて、おおいに困ったというふうを装った。
「あのですね、そういう態度は改めた方がいいですよ。僕は貴方のそういうところが嫌なんです。惨めったらしくて、見てられません」
「……ふん。だからどうだって言うんだ。あいつを行かせてやればよかったというのか」
ぶちぶち、と雑草を力任せにむしって、長谷部は言う。長谷部の目の前に昨日の本能寺の光景が一瞬よみがえり、そして消えた。呆れるくらい見た光景だった。そこに湧くような感慨は最早消えてしまっている。
「僕はそうは言ってません。もっと慰め方ってものがあるでしょうって言ってるんですよ」
宗三はしゃがみこんで土いじりをしている長谷部のつむじを睨み付けた。新入りーー不動行光は、織田信長をたいそう慕っている刀だ。そんな刀が本能寺を前にして冷静でいられるはずもない。だから、止めてやる仲間が必要だった。とはいえ選ばれたのがこの刀だとは! 政府からの指定とはいえ、この刀ほど適任ではないのも早々いなかろう。何を言ったのかは知らないが、ろくでもないことに決まっている。
そんなろくでもないことしか言えないこのへし切長谷部という刀を、宗三は可哀想に思う。いちいち愚直なのだ。なにもかもが。
「例えばの話だ」
さんざんに言われたものの、その声は怒りを帯びてはいなかった。長谷部は立ち上がって軍手についた土をさっと払うと、トマトをもいでいた宗三の目を見て言った。
「こんな未来はすべて嘘で、俺は織田信長の刀で、あいつは全国を支配するんだ。信長様! と民衆はあいつを称える。国の英雄になって、長い間世を治める」
なにを言い出したか、宗三ははじめ理解できなかった。ざっ、と長谷部は山になった雑草の山を蹴って、横に追いやった。もう雑草抜きは終わったらしかった。そんなどうでもいい仕草ばかりが目についた。
「そんな馬鹿らしいことがあると思うか? なあ宗三」
問いかける長谷部は笑っていた。可哀想に、こんなことでしか笑えないのだ。宗三は答えなかった。確かに人間の書く三文小説にも劣る、馬鹿馬鹿しい空想だった。しかし、それを馬鹿らしいとは言えなかった。他人の夢を笑うことなど、宗三には出来ない。もしああだったら、と考えたことのないものだけが、このものに石を投げることが出来る。少なくともそれは宗三ではない。
「あの男は、あそこで散るからいいんだ。俺の知ってる男はあそこで死ぬのが唯一無二で、それ以外はない。生きる織田信長など、俺の知る人間ではない。そんなの、最早別人なんだ」
うつ向きかげんに、長谷部は言った。真剣な声色だった。追い詰められている、とも表現できた。どうでもいいというポーズを取っているくせして、そういうところは未練がましい。
よくもまあこんなになるまで、放って置いたものだ。宗三は嘆息する。拗れに拗れた長谷部のこころは、熟れすぎた野菜のような色をしているに違いない。宗三はよく熟れたトマトをひとつもいで、籠に入れた。
「俺たちは物だ。物の分際で人の一生にけちをつけるなんて、そんなこと出来るわけがないだろう」
しかし長谷部は正しい。人の身を持っても、物には変わりがないのだということをよく分かっている。物にとって大事なのは「今このとき」であって、それは意思を持っても変わりない。そういう面ではどこまでも純粋で、高潔だ。
「それ不動に言ったんですか。馬鹿ですね」
「馬鹿とはなんだ、馬鹿とは」
ただひねくれているだけならば、もしくはただ純粋であるだけならば、宗三もこんなに長谷部のことを気にしなかっただろう。例えるなら、抜き身の刃物。戦場では役に立つかもしれないが、日常では危なっかしいことこの上ない。放っておいたら、知らないうちに折れていそうで怖いのだ。
「貴方、それ日本号のときもやったでしょう。大変だったの忘れたんですか。相手の神経を逆撫ですることにかけては本当に天才ですよね」
「誉めているのか貶しているのかはっきりしろ」
「貶しているんですよ! 本当、感情の機微に疎い…………」
あーあ、と宗三は額を押さえた。そこで「おーい、飯だぞ」という鶴丸の声が聞こえて、二人は作業する手を止めた。空ばかりが青く透き通っていて、長谷部もこれくらい明け透けならばどんなによかっただろう、と宗三は思った。
「長谷部、行きますよ。日向仕事は疲れました」
呼ばれればこんな仕事にいつまでも精を出す理由がないと、さっさと片付けてしまう宗三の後ろを、長谷部は追った。廊下で大きく手を振る鶴丸の横で、不動が不機嫌そうな顔をしているのが見える。
不動行光。織田信長を生かしたいと、泣きながら訴えた刀だ。先日本能寺で、ぼろぼろと子供のように涙を溢していた姿がにわかに脳裏に甦る。自分はあの刀ほど、愛してくれたぶんを返そうと思えるくらいに、あの男に対して恩義もなければ情もない。ただ、自分がそうなれなかったぶん、そうやって言ってくれる刀が一振りでもいることは悪いことではないと思った。
不動、どうか俺を理解してくれるな。俺を省みるな。本能寺の炎に照らされた、お前の背中が俺には眩しい。どこにもやれぬ言葉を長谷部は飲み込んだ。