深夜、渋谷のホームにて
(ミルグラム 0509)
あ~、もう死ね。みんな死ね。ミコトは渋谷駅のホームで盛大に嘔吐しながら、世界を呪った。ピカピカとバカみたいに光るネオンも、通り過ぎてはこっちを見てくる通行人も、デカイ広告に載ったアニメのキャラもなにもかもがうざったくて仕方が無い。
シブヤメルトダウンじゃん~! なんて言いながら、若い女がミコトを撮影した。最悪だ。なにがシブヤメルトダウンだ。肖像権って知ってる? そう言ってやりたいのに、口からはマーライオンのようにゲロが出る。
ミコトが生活で重視しているのは効率的な昇進とコミュニケーションによるコネ獲得だが、それに付随するこの〝飲み会〟と言うシステムはいかがなものか、と思う。今時はやらない、というかほぼ犯罪行為である一気飲みコールを受けて、ハイボールをイッキしたとき、ミコトの中のなにかが音を立てて壊れた。取引先の前であるから、笑顔で応対したがそのとき既にもう吐きそうで、電車に揺られたらもう最後だった。
そうして、お手洗いまでがまんもできず、ゲエゲエと飲んだ分だけ吐いている。もう気分は最低の最低に達していた。地底にもぐるくらいに。
ひとしきり吐いた後、口の中がまずい、とため息をついて自分が吐いた吐瀉物を眺めていると、優しいテノールが頭上から降ってきた。
「大丈夫ですか?」
なんだよ。ほっといてくれよ。そう脳内で悪態をつきつつ、声のほうへとミコトは顔を動かした。そこには、清潔そうな雰囲気のする服を身に纏った男が立っていた。染めているのかどうなのかは知らないが、銀髪の、目の下に二つある泣きぼくろが印象的な男だった。
「飲みかけで悪いですが、水、ありますので」
男はそう言って、ミコトにペットボトルを差し出した。こんな優しい人いるんだ、絶滅危惧種だろ、そう感じながら、「ありがとうございます……」とミコトは受け取る。
「僕、さっきまで飲み会だったんですけど。とんだアルハラ現場で。イッキしたらこうですよ」
「そうだったんですか。会社員というのも、大変ですね。ハンカチもあるので、拭いてください」
「ああ、すみません。なにからなにまで」
ミコトは男の、コンビニでも売ってそうなチェック柄のハンカチを受け取って、口を拭う。男はうすく微笑んで、「いいんですよ。俺がやりたかっただけなので」と言う。
「職業柄、つらそうな人は捨て置けなくて」
「職業?」
「医者なんです。まあ、外科医なんですけどね」
「ヘエ、そうなんですか」
それはたいそうなことだ、とすこしミコトは男に対してひがんだ。医者か、医者になれたら、こんな思いをしなくても済んだのかもしれないな、とまた自分の吐いたものを見つめた。黄土色の、きたない物体は、べたりとホームの地面に張り付いて、消えない。
「というのは嘘で、実は、ナンパなんです」
「は?」
「そんな顔しないでくださいよ。電車で見かけて、それで……って、よくある話じゃないですか。いや、医者なのも、心配したのもほんとうなんですけどね」
「そ、そうなんですか。僕、今、男にナンパされちゃってる感じなんですか?」
混乱がミコトの脳内を支配する。普段なら〝コミュニケーション〟でかわせることも、アルコールでバカになった頭ではどうにもできなくて、馬鹿正直に問いかけてしまう。
「そうですね。すいません、気持ち悪かったですか?」
「いや、もう気持ち悪いんで。酒で……」
「じゃあ良かったです」
男はニコリと笑い、ぼうっとするミコトに名刺を差し出した。なにもよかねえだろ、と言いたかったが、恩人にどう言えばいいのかもわからなくて、反射的に受け取ってしまう。
「桐崎獅童……」
「シドウって呼んでください。あなたは?」
「榧野尊だけど」
「榧野くん。じゃあ、ハンカチ、返してくださいね」
シドウと名乗った男は、そう言うとミコトの背中をさすって、去ってしまった。雑踏に紛れて見えなくなるまで、ミコトはそれを見送る。変なことになってしまった、とミコトは酒のせいでぐらぐらする頭を押さえ、深く息を吐いた。
ただ、ピカピカとバカみたいに光るネオンも、通り過ぎてはこっちを見てくる通行人も、デカイ広告に載ったアニメのキャラも、今はうざったくなくなっていた。ただ、手の中の「桐崎獅童」と書かれた名刺とどこにでもあるようなハンカチが、ミコトを見ていた。