設定温度24度
(はちたい 暴力の表現あり)
柚葉が隣の部屋で殴られている。オレはそれを何もできずにただ見ている。
暑い日に、オレが冷房を切って外にでなかったからといって「アイツ」が静かに怒ったのを庇った柚葉が、隣の部屋で拳を振るわれていた。
柚葉、ごめん。柚葉。オレはただ、謝るしかできない。謝ったところで、どうもならないのにな。
どっかの歌手のリリースされたばかりのアルバムがラジオで宣伝されていて、柚葉の悲鳴が聞こえる室内に音楽が流れていた。
オレは柚葉の金切り声を聞かないようにして、タオルケットのなかでうずくまった。
ママもうやめて、と言うロックシンガーの声は、兄には届かない。
・・・
その夜はひどく暑かった。オレはそれで目が覚めて、エアコンの設定温度を確認した。27度。もういつだって、好きな温度にしていいのにオレはいつまでも大寿の言うとおりに27度を守り続けてしまう。
なんだかむかむかして、腹が立って、オレはやけくそのようにリモコンの下ボタンを連打して設定温度を24度にしてしまった。
ざまあみろ、という思いと、なんとなくの罪悪感(それは、体に染み付いたものだ)が胸を締め付けた。
大寿は、今もきっちり設定温度27度の部屋で寝ているのだろうか。
オレは家を出ていった、もうほとんど他人みたいな男のことを思った。驚くべきことに、もう顔はほとんど、ぼんやりとしていて輪郭くらいしかわからなかったけれど。
ただ、耳には未だ生きた亡霊が張り付いているかのように、大寿の低い声が、まざまざと聞こえる。
『八戒、24度なんて贅沢なことをしていいって、誰が言った?』
ああ、アイツの言いそうなことだ。オレはそれでも24度の冷房設定を変えなかった。それがあのクリスマスを経て、出来るようになったことだ。
「24度でもいいだろ、暑いんだし」
24度に、文句を言う人間はもうこの家には居ないのだし。
柚葉とオレと、二人で暮らすことに抵抗はなかった。柚葉はオレのことが好きだし、オレも柚葉が好きで、それでひとつも恐ろしいことなんてなくて。
なのに、こんな熱くて寝苦しい夜に思い出すのは、大寿のことばかりだ。
別に、嫌なことばかりあったわけじゃない。大寿にだって、頼れる兄貴だった瞬間があって、オレはそんなアイツが好きだったからどうしても嫌いきれないでいるだけ。
好きなだけだったら、もしくは嫌いなだけだったら。こんな風にはなってないんだろうな、とオレはベッドに寝転んで、天井を見つめた。
天井は何も返さない。オレたちに「いい」未来があったろうか? これ以上の良い結末が迎えられる、そんな都合のいい世界があるのだろうか?
「ねえだろうなぁ」
そう考えてしまうのは、いつかおぶってもらった背中のことが忘れられないからで、それを否定するのは、あの拳の痛さ、おそろしさを知っているからだ。
都合よく「仲直り」なんていうことができるなら、とっくにしている。できないから、こんな夜にうじうじと一人で悩むのだ。どうしようもなくて、オレは気を紛らわすためにラジオの電源を付けた。深夜ラジオから、音楽が流れる。
ガンにかかったというロックシンガーの、しゃがれた声が部屋を満たした。ああもし、大寿が死んでも、オレはもしかしたら知らないでいるのかもしれないと少し思った。
24度の冷房で冷えた部屋はどうにも寒くて、オレは静かに27度に戻した。
あとがき
忌野清志郎は2005年にGODというアルバムを出し、2006年にガンを告白したシンガーです